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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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いつまでもダラダラとする癖、なおしたい。


何かをすると面白くなって、いつまでもやっている。
若いころは楽しくて、やっているうちに次第に慣れてしまうので、何となく理解できたようないい気分になったもんだ。

しかし、最近になって事情が大きく変ってきた。
例えば、パソコンの作業である。

数時間すると、目が疲れてくる。疲れるだけならよいが、キラキラや斜視を起こすのである。おそらく、網膜剥離の前兆であろう。あるいは、単なる眼精疲労かもしれない。

さらにまた、すぐに疲れてしまって、何となく作業に飽きてしまうことさえもある。考えてみれば、意味のないことであり、キリがないからであろう。
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強靭な意志がなければ、百舌の速贄。


ホームページやプログを作っていると、つくづくと思い知らされる。
それは、かなり強い意志がなければ、一人前の内容にはならないということ。つまり、やりかけになって、なかなか完成しないのである。

考えているようには、ホームページが続かない理由=全体の大きさが、ファイル数で、1万近くなった。そして、HTMLを初めとして、JPGなどの画像、さらに朗読やBGMすべてを合算すると、ヤフーは間もなく1ギガバイトになる。そこで、さらにビッグローブを追加して1ギガバイト分を確保。

いきおい、百舌(もず)の速贄(はやにえ)のようなページが、いくつも残ってしまう。そして、それがどこにあるかも忘れてしまう。困ったもんだ。つまり、百舌(もず)とまったく同じ。お粗末で、お恥ずかしい次第。
帰ったら歩いた距離を測ってみよう。


プチさん(プティ散策)から帰ると、歩いたところをグーグルの地図「マイマップ」で見る。縮尺を変えたり、航空写真にしてみたりする。上から見るのは、「鳥瞰図」や「ナスカの絵」のように楽しい。自分が、どこを歩いたかが再確認できるから。ただし、森の中を歩いたときはダメ。

さらに、歩いた道をグーグルの「距離測定ツール」を用いて、地図上でトレースすることによって簡単に歩行距離がわかる。メートルでなくヤードでも測れるが、私はメートルのみ。

わずか3時間くらいのプチさん(プティ散策)ではあるが、4キロメートルくらい歩いている。途中で休んだり、立ち止まって考えたり、何かを見学をしているので、平均時速はものすごく遅いことになる。

プチさん(プティ散策)は、それでいいんだ。

コツコツとメモや写真を残す楽しみ。


他人が見たら、幼稚で愚かな内容かもしれない。しかし、自分がよければよいのである。評価をされることを目的としているわけではなく、自分自身が「生きている証明」をしようとしているのであるから。

そんなわけで、散歩に出かけるときには、デジカメを持参。そして、何かに興味をもつと、気軽にパチリ。また、いつもメモ用紙を持っている。思いついたことは、直ちにメモる。

デジカメの写真とメモ用紙の内容は、帰ってから整理・編集。ほとんどの写真やメモは、削除をしてそれでおしまい。しかし、ホームページに残したり、プログの記事になったりするものもある。

いずれにしても、「生きている証明」なのである。
何となく、我とわが身をもて余す日々。


精神的にも肉体的にも、何となく物憂いことがある。さらに、面倒くさくなってしまう。やる気がなくなったり、体が重く感じたりする。そして、何をするのも煩わしくなりがち。

「我」は「心」、つまり「気」。「わが身」は「身体」。そして、「気は心」などと言う。
また、「病は気から」とも言うではないか。

気力がなくなると、身体の抵抗力が少なくなって、病気になりがち。そして、最後はアウトになってしまう。知人を見ていると、そんな人が多い。かつて、あれほど精力的であった人が、すっかり静かになってしまった。

少しでも、そうならない工夫が必要であろう。考え方で、かなり結果が異なってくるからだ。

次々と脳裏をよぎることをメモする。


単に、それだけのことである。
それがいったい何になるのか。あえて言えば、いつまでも脳をフレッシュにする技法の一つと考える。つまり、「老化予防」の一つであろう。ボケ防止などとしてもよいかもしれない。

そのメモも、「回想創造法」や「自己福音書」にまで発展させることができる。そうなれば、何とも楽しいことではないか。

次々とイメージを心の中でリンクしていく。心の中というよりも、脳の中かもしれない。そして、その場が「知的空間」となる。自分自身の中に、マクロコスモスを構築する。その宇宙は、次第に膨張をしていくかもしれない。つまり、エントロピーの増大と同じで、際限がないことだ。しかし、それでもいい。
何回も、同じことする楽しみもあり。


同じことを繰り返すと、くどいと感じたり、ともすると飽きがち。しかし反面、その中に再発見があったりして楽しい。

私は、宮本武蔵の

<千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。
自分の考えでしたことに関しては、後で悔やまないようにすべきだ。>

という言葉を思い出す。
何事もわかっているようで、考えてみればわからない。そんな中で、「お百度」や「百曼陀羅」のような修行をすることを考えると、まさしく自分自身を見直す瞬間になるのである。
そんなことが、最近になってわかってきた。

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