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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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道元と懐奘(えじょう)を思う、がまとみみずと。


道元と懐奘(えじょう)を考えると、何となく懐奘のほうがわかりやすい。いま、私が調べている

 <切に思ふことは必ずとぐるなり>正法眼蔵随聞記

という記述は、ポールマイヤーなどにもあった。

さらに、

 <「仏というは蝦蟆(がま)蚯蚓(みみず)ぞ」といわば、蝦蟆蚯蚓をこれぞ仏と信じてひごろの知解(ちげ)を捨つべきなり。>(正法眼蔵随聞記)

 <学道の人はもっとも貧なるべし。>(正法眼蔵随聞記)

 <学道の人はまずすべからく貧なるべし>(正法眼蔵随聞記)

 <人の心もとより善悪なし。善悪は縁に随って起こる。>(正法眼蔵随聞記)

 <ほう(まだれの中に龍)居士(ほう公)は、参禅のはじめ、家の財宝を持ち出して海に沈めようとした。>

 <玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁(ひと)となる。……>

 <自ら卑下して学道をゆるくすることなかれ>(正法眼蔵随聞記)

などと言う言葉に、大いに感激をした。
道元は、わが国の曹洞宗の祖と言われる。さらに、次のような言葉を残している。

 <仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり>(正法眼蔵)

 <ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏の家になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。>(正法眼蔵)

なお、正しくは「正法眼蔵」を「しょうぼうげんぞう」と読むらしい。
さらに、私は考える。
もしかしたら、弟子のほうが師より数倍も優れていたのではないか?

 <自己をならふといふは、自己をわするるなり。>(正法眼蔵)

雪の中の白い梅についての記述が『正法眼蔵』にある。

 <人間は知識をいっぱいもっているが安心できる世界はないのではないか?>

『正法眼蔵』の「梅花の巻」である。
私にも、静かに目を瞑る(つぶる)と雪の中の白い梅の花が見えるようだ。
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エスペラント、なぜ広まらぬ? 素晴らしいのに。


エスペラント語は、理想的な人工語であるのに、なぜ普及して広がらないのだろうか?

ここのところ、私はちょっとエスペラントの学習をした。
でも、いまさらエスペランチストになるわけではない。
なぜ、この言語が世界で大流行をしないかが、不思議であったからだ。

中学生のころ「エスペラントの父ザメンホフ」という岩波新書の本から抜粋が国語の教科書にあった。伊東三郎さんが書いた本で、非常に内容が優れていた。
そのころ、父が京大以後にお世話になった人ということで、伊東三郎さんのお嬢さんと、やはり秦さんの息子(剛平さん)と娘(良子さん)三人の英語の勉強を母がみていた。むろん、無料でしていたと思う。

秦さんの息子は、キリスト教大学を優秀な成績で出て、今は美大の教授になられた。しかし、伊東さんの娘さんも秦さんの娘さんも、その後どうなったか知らない。

秦さんも伊東さんも金銭を父に貸してくれたそうであるが、どちらかの方の学生時代のあだ名か忘れたが「西洋乞食」と言ったそうだ。しかし、それは風袋のことであって、いずれも資産家の家系だったらしい。

ご承知のようにエスペラントは人造語である。
……
楽しみは、まれに秀歌を思いつくとき。


橘曙覧(たちばなのあけみ)ではありませんが、作品を作っていて、私は百回に一回くらい秀歌もどきのものができちゃいます。まぐれでしょうか、非常に珍しいことです。

そんなときは、何ともうれしいものです。
ただし、この作品自体は駄作ですが、……
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