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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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何事も、飽きる結果にならないように!


最初は、何事も情熱をもって始める。習い事をはじめとして、ホームページやプログなどもそうだ。

しかし、現実の問題として、訪問者がほとんどいない。だから、つい面倒くさくなる。自分の頭の中にあることをわざわざ文章としてまとめるのが、……。見る人がいないのであれば、自分自身の記録であるから面倒な文章にしなくてもよいのではないか?

そんなことを、つい考えてしまう。
でも、「見てくれなくてもよい」「自分自身のために整理をする場」、そして「考える場」、それがホームページだと思えばよい。そんな意味で私の場合は、絶対に飽きてしまってはいけないのである。つまり、自分自身の生きている証明だからである。
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作られたものに入るか、独存するか?


組織や制度などの作られたものの中に、どっぷりと漬かるか。あるいは、なるべく束縛を避けて個人として存在するか。唯我独尊などとは言えないが、自分自身を孤立化するのも一つの生き方。つまり、できるだけ社会性のない日々を送る。

むろん、電車に乗ったり、デパートで買い物をする。しかし、できるかぎり煩わしい人間関係を避ける。つまり、それが現代の出家的生活である。山奥にこもったりしなくてもよい。なぜならば現代社会は山奥でも、やはりわずらわしい問題があるからである。

そうすると、ホームレスの人たちの生活はどうであろうか。かなり昔の仙人や出家者と似た心境にある生活が行われているようだ。そんな意味で、私も気楽な生活がしたい。
残された掩蔽壕と高射砲後。


関東村、つまり調布飛行場の中に今でも掩蔽壕(えんぺいごう)が残されている。戦時中にゼロ戦を隠して待機させたという。半円形のセメントで固めた臨時格納庫のような粗末なものだ。
また、三鷹市の大沢には高射砲を据えた小高い場所が残っている。もっとも、そこからでは上空を行くB29まで弾が届かなかったらしい。しかし、当時はそれなりに応急対策されたらしい。

三鷹や調布には、中島飛行機の工場があったので、とくに防備には重点が置かれた。しかし、いま思うと、当時のアメリカの戦力と比べて、まったく小規模なものであった。

そんな時期に、三鷹市深大寺から武蔵野市グリーンパークの工場まで、地下トンネルなども掘られたのではないか。また、そのころアメリカの本土上陸にそなえて、国民が竹槍を削っていたことなどを考えると、まったく哀れで滑稽でもあり、愚かでもあったのではないか。
身の回り、ぼつぼつ整理して、安らかに。


身の回りにゴタゴタと多くの物があると、気持ちが落ち着かない。物に支配をされてしまうからであろう。いろいろなものをため込んでも、いざというときに利用ができないことが多いようだ。

つまり、どちらかというと身の回りをすっきりとしておいたほうが、心が安らかなのではないか。あまりにも、たくさんものを持っていると、気が散ってしまうかもしれない。

そんな意味で、「吾ただ足るを知る」という振り出しに戻る。
それは、老子やマルクス=アウレリウスなどが、すでに言っていることではあるが、なぜか現代社会では実行する人が少ないようだ。
その結果、際限なく不安が増していくのである。
あなたは、いかがであろうか。
ふらふらとすることもあり、息苦しくて。


「ふらふらする」ということは、ふつう脳震盪の初期症状らしい。また、自律神経が失調しているときなども、そうなることが多いようだ。
「息苦しい」のは、おそらく心臓が弱っているためであろう。とくに、呼吸器系が故障したわけではないらしい。

そして、上の二つの症状が同時に起こるのは、珍しいのではないか。いずれにしても、身体が失調していることには変わりない。

もしかしたら、「息苦しさ」などは大いに精神的な症状かもしれない。何となく、健康に自信がなくなり始めたころから、歩いていて何かの拍子にふらふらとしたり、また息苦しくなるようなことが起こるようになった。
あるいは、加齢が原因かもしれないが、……。
何ゆえにおそい来たるか? 身体(からだ)の不安。


ここのところ、あまり体調がよくない。そのためだろうか、身体(からだ)のあちこちに不具合と不安が生じる。

目が見えなくなっちゃうんじゃないだろうか?
歩けなくなるんじゃないだろうか?
痴呆症になりそうな気配があるんだが、……
などなど、心配すればキリがない。
若かったときには、そんなことを考えたことがなかった。
一昨年の入院・手術、その後かなり長期間の通院、そんなために自信がなくなってしまった。また、還暦をとっくに過ぎ、ぼつぼつ古希。

そんなことも含めて、加齢のためかとも考えざるをえない。
あなたは、いかがであろうか。
同じこと、異なる箇所に何回も書く?


まったく仕方のないことである。ふつう、一冊の本であれば、それは恥ずかしいこと。くどくどと煩わしいし、第一紙幅のムダ遣い。著者の能力を疑われてしまう。

しかし、ホームページではどうであろうか。大きくなると、どこに何が書いてあるかを作者自身が忘れてしまう。とくに、私のように記憶力があまりよくない場合には。

そこで、つい同じことを書く。もしも、読んでくださる人がいたら、書いている人の能力をさげすむであろう。でも、老化予防という目的を考えると、あながちムダとは思えない。なぜならば、度忘れやボケを防止する最適な方法でもあるから。もっとも、朝飯を食べたのを忘れて、もう一度食べようとする愚かさを考えると、それと似た心配なことでもある。
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