rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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見れば見るほどに、楽しいグーグルの地図。
雨の日などは、散歩に行けない。
そこで、パソコンを始める。グーグルの地図を見るのである。
大きな地図で見る
場所がないので小さくしたが、実際には「大きな地図で見る」をクリックして、倍率を変えたり、航空写真にしたりする。一ヶ月前から、大きな地図にするとストリートビューも見れるようになった。そんなことをやっていると、面白くてなかなか飽きずに楽しいときを過ごせる。
雨の日などは、散歩に行けない。
そこで、パソコンを始める。グーグルの地図を見るのである。
大きな地図で見る
場所がないので小さくしたが、実際には「大きな地図で見る」をクリックして、倍率を変えたり、航空写真にしたりする。一ヶ月前から、大きな地図にするとストリートビューも見れるようになった。そんなことをやっていると、面白くてなかなか飽きずに楽しいときを過ごせる。
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雨の日は部屋で編集、楽しくもあり。
雨が降っていると、プチさん(プティ散策)に行けない。
そこで、部屋にこもってデジカメ写真の編集などをする。さらに、中途半端になっているホームページの箇所などを追加・編集する。
そんなことをしていると、何となく楽しい。
実際には、くだらない無意味なことかもしれないが、自分自身の生きているという「実感」がもてる。つまり、そのことが「生きている証明」なのである。
ノスタルジック(nostalgic)という言葉は、「郷愁を感じる」ことや「郷愁を感じさせる」ことなどを言うが、思い出すこと自体が自分自身の心のノスタルジーなのかもしれない。
なぜか「こんなことが、かつてあったなぁ」などとデジャビュを感じることも多いからだ。
雨が降っていると、プチさん(プティ散策)に行けない。
そこで、部屋にこもってデジカメ写真の編集などをする。さらに、中途半端になっているホームページの箇所などを追加・編集する。
そんなことをしていると、何となく楽しい。
実際には、くだらない無意味なことかもしれないが、自分自身の生きているという「実感」がもてる。つまり、そのことが「生きている証明」なのである。
ノスタルジック(nostalgic)という言葉は、「郷愁を感じる」ことや「郷愁を感じさせる」ことなどを言うが、思い出すこと自体が自分自身の心のノスタルジーなのかもしれない。
なぜか「こんなことが、かつてあったなぁ」などとデジャビュを感じることも多いからだ。
価値観は各自異なる、知的空間。
むろん考え方や価値観などは、誰もが異なっている。それは、当然のことでしょう。それはその人の習慣や知識によって、日々少しずつ形成されてきたものだから。
したがって、とどのつまり自分自身の知的空間を作るしかない。それが、ちょっと特異であっても、また私のように幼稚であっても。
しかし、あまり内容が薄いものが人目にふれることは、恥ずかしいことかもしれない。そして、製作途中でアップロードしてしまうのも、みっともない次第。
それでも、それが自分自身だから仕方のないことである。
つまり、自分自身の知的空間を構築するときには、恥や外聞を考えることは意味がない。せいぜい、自分が精一杯がんばればよいのである。自分自身を隠すこともないし、他人に諂(へつら)うこともない。
そんな知的空間なのである。
むろん考え方や価値観などは、誰もが異なっている。それは、当然のことでしょう。それはその人の習慣や知識によって、日々少しずつ形成されてきたものだから。
したがって、とどのつまり自分自身の知的空間を作るしかない。それが、ちょっと特異であっても、また私のように幼稚であっても。
しかし、あまり内容が薄いものが人目にふれることは、恥ずかしいことかもしれない。そして、製作途中でアップロードしてしまうのも、みっともない次第。
それでも、それが自分自身だから仕方のないことである。
つまり、自分自身の知的空間を構築するときには、恥や外聞を考えることは意味がない。せいぜい、自分が精一杯がんばればよいのである。自分自身を隠すこともないし、他人に諂(へつら)うこともない。
そんな知的空間なのである。
雨の日は、部屋にいながらプチの株分け。
雨の日は、プチさん(プティ散策)ができない。そこで、パソコンを起動して現在のページをいくつかに株分けする。そんな楽しみも大きい。
あちこちと行くと、デジカメ写真が次第に増える。また、新しい知識を得たり、再発見がある。そんなことを次々と追加・編集していく。いきおい、一ページが大きくなる。そして閲覧時には、煩わしいほどのろのろと動いてしまう。
そこで、大きくなった一ページをいくつかに分ける。つまり、まとまった単位に分割する。それは、ちょうど植木の株分けと似ている。そして、さらに大きくなりすぎたら、改めて再株分け。そんなことを続けるのは、思ったよりも楽しい。
各ページも、次第に成長をしていくのである。
雨の日は、プチさん(プティ散策)ができない。そこで、パソコンを起動して現在のページをいくつかに株分けする。そんな楽しみも大きい。
あちこちと行くと、デジカメ写真が次第に増える。また、新しい知識を得たり、再発見がある。そんなことを次々と追加・編集していく。いきおい、一ページが大きくなる。そして閲覧時には、煩わしいほどのろのろと動いてしまう。
そこで、大きくなった一ページをいくつかに分ける。つまり、まとまった単位に分割する。それは、ちょうど植木の株分けと似ている。そして、さらに大きくなりすぎたら、改めて再株分け。そんなことを続けるのは、思ったよりも楽しい。
各ページも、次第に成長をしていくのである。
すぐ眠くなるのは、何か病気だろうか?
古希が近くなってから、何かをするとすぐに疲れちゃう。そして、眠くなってしまうんだ。
4キロメートルほど歩いて、電車に乗って帰る。すると、座るとウツラウツラする。そして、はっとすると下車駅を過ぎていたりしちゃう。
若いころは大酒でも飲まないかぎり、そんなことはなかった。おそらく、身体の組織や細胞などが衰えてきたのかもしれない。
何となくバッテリーのことを思い出す。
自動車でもデジカメでもそうだが電池が古くなると、充電をしてもすぐに放電して使えなくなってしまう。つまり、古くなると保持能力が弱くなってしまうらしい。
新しいものに変えると、何とか元通りになる。人間の場合も、同じことが言えるのかもしれない。
古希が近くなってから、何かをするとすぐに疲れちゃう。そして、眠くなってしまうんだ。
4キロメートルほど歩いて、電車に乗って帰る。すると、座るとウツラウツラする。そして、はっとすると下車駅を過ぎていたりしちゃう。
若いころは大酒でも飲まないかぎり、そんなことはなかった。おそらく、身体の組織や細胞などが衰えてきたのかもしれない。
何となくバッテリーのことを思い出す。
自動車でもデジカメでもそうだが電池が古くなると、充電をしてもすぐに放電して使えなくなってしまう。つまり、古くなると保持能力が弱くなってしまうらしい。
新しいものに変えると、何とか元通りになる。人間の場合も、同じことが言えるのかもしれない。
楽しみは、見知らぬ道で新たな発見。
何のことはない。初めて行った道で、目新しいものを見ることがある。それを大げさに発見などという。
変った形の家があった。川の流れに、白い鯉が泳いでいた。お寺の中に、神社があった。たいがいどれも他愛のないことである。それでも、私にとっては大きな喜び。
実際には市中を歩いても、あまり驚天動地のようなことはないかもしれない。しかし、そこには今までに気付かなかった些細な再発見がある。それは、異なった視点で見ることによって、初めて気がつくこともあろう。
そんなことがあるから、ちょっと裏道を行ったり、いつもとは違う道を歩くのである。
何のことはない。初めて行った道で、目新しいものを見ることがある。それを大げさに発見などという。
変った形の家があった。川の流れに、白い鯉が泳いでいた。お寺の中に、神社があった。たいがいどれも他愛のないことである。それでも、私にとっては大きな喜び。
実際には市中を歩いても、あまり驚天動地のようなことはないかもしれない。しかし、そこには今までに気付かなかった些細な再発見がある。それは、異なった視点で見ることによって、初めて気がつくこともあろう。
そんなことがあるから、ちょっと裏道を行ったり、いつもとは違う道を歩くのである。
「マグノリア」という言葉が、脳裏をよぎる。
なぜだろうか。突然に「マグノリア」という言葉を思い出した。しかし、意味を忘れている。したがって、何のことだかわからない。
仕方がないので、辞書を引いてみた。
すると、「マグノリア(ラテン語 magnolia)は、モクレン科モクレン属の植物の総称」とあるではないか。モクレンと言えばわかるのに、何でマグノリアが出てきたのかわかった。
豪徳寺の閑静な住宅街に瀟洒なマンションがあった。1年ほど前に歩いたときのこと。その表札に「マグノリア」とあったのだ。そして、そのときに「木蓮荘としたら何となく野暮ったくなっちゃうなぁ」と思ったことを思い出した。
香りには関係がなく言葉の意味が、脳裏をよぎったささいな経験。
なぜだろうか。突然に「マグノリア」という言葉を思い出した。しかし、意味を忘れている。したがって、何のことだかわからない。
仕方がないので、辞書を引いてみた。
すると、「マグノリア(ラテン語 magnolia)は、モクレン科モクレン属の植物の総称」とあるではないか。モクレンと言えばわかるのに、何でマグノリアが出てきたのかわかった。
豪徳寺の閑静な住宅街に瀟洒なマンションがあった。1年ほど前に歩いたときのこと。その表札に「マグノリア」とあったのだ。そして、そのときに「木蓮荘としたら何となく野暮ったくなっちゃうなぁ」と思ったことを思い出した。
香りには関係がなく言葉の意味が、脳裏をよぎったささいな経験。