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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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オッカムの剃刀なのか、死後の命は?


「オッカムの剃刀(かみそり)」という言葉がある。それは「ある事柄を説明するために、あまり多くのことを仮定してはいけない」ということ。つまり、仮定が多すぎて「ああでもない、こうでもない」はダメなのである。

ある存在は、必然性なしに増加されてはならない。より広範囲の事象を説明するためには、より単純な理論のほうがよい。それでは直感的に納得できることは、どうであろうかと私は思う。

オッカムは、十四世紀スコラ哲学の神学者。フランシスコ会で会則の解釈をめぐり、やがてローマ教皇ヨハネス二十二世と対立、異端審問のため教皇庁へ召還された。私は、死後の命について、仮説が多すぎるように思う。
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束の間も忘れていたい老いと死のこと。


束(つか)の間は、ごく短い時間のこと。ちょっとの間でも、そのことを忘れていたい。つまり、老いていくことと、やがて死ぬことを。

なぜならば、老いれば死に近づくことは否めない。そして、現実に死がやってくる。心配なのは、死んだ後である。死ねば何もかもなくなるので、下らない心配をする必要がないなどと言う。

死後の状態では、本当に意識がないのだろうか。プラトンほどの学者でも、明快な回答を出せなかった死後の世界。スエーデンボルグやシュタイナーを読むとおちおち油断ができない。「銀河鉄道の夜」や「星の王子さま」なども、何かしら死後の世界を垣間見た感じである。理論で考えなくても、私は直感でわかる。だから心配なのである。
ひらひらと光りて舞いし散華をひろう。


八王子市戸吹町の桂福寺で、たまたま観音さまのご開帳に出くわした。僧が十人ぐらい、信者が六十人くらい集まっていた。私も勧められるままに後部の席についた。屋外の折りたたみ椅子である。

檀家衆による観音和賛の後で、散華が撒かれた。快晴の日和だったので、空中で光って、はらはらと舞い散ってきた。後ろのほうにいたが、私は六枚も拾った。

裏表ともに金銀を含めた美しいカラーで、寺院や蓮花そして天女などが印刷されている。何とも素敵なデザインであった。私は、後日その散華の大きさと形で千社札を作った。図のデザインは、魚籃観音(ぎょらんかんのん)を現代版にした。そして、「陜右(せんゆう)の人たち」というコメントを付け加えた。
めっきりと足おとろえて、バスが楽しみ。


最近になって、めっきりと足が弱くなった。膝の部分が、磨耗してしまったのである。かつては十キロメートル以上でも平気だったのだが、今は違ってせいぜい二キロメートル。なぜかというと、膝のあたりが痛くなるからだ。

おそらく、関節がすり減ってしまってぶつかるためであろう。しかたないので、歩く距離を減らさざるをえない。そこで、考えたのがバスを利用するプチさん(プティ散策)である。とくに、シルバーパスになってからは効果的である。

以前のように、計画をしたところ全部を回る必要はない。疲れてしまったら、次の日に持ち越せばよいのである。途中で乗り継いでも、費用がかからないからありがたい。バスに乗って、きょろきょろと景色を見ているのも、なかなか楽しいものである。
まだ知らぬ土地を歩くと、新たな知識。


今までに行ったことのない場所を歩いていると、思わぬ発見があったり、興味深い知識が得られる。初めての土地でも、何となくなつかしかったり、過去に来たことがあるような感覚に襲われたりもする。

既視感やデジャビュといわれる現象だろうか。過去に来たことがないのに、初めてではないような気がするのである。

神社や仏閣を尋ねたり、市の公開堂などに寄る。そこには、初めて会う人がいるのであるが場所を尋ねたりすると、やはり何となく以前に話をしたような気がすることがある。知らない土地を歩いていると、珍しいことや今までに知らなかったことなどを発見できる。そして、それらは新しい知識になる。そんなことが、大きな楽しみである。
体温のコントロールが、うまくいかない。


冬になると体温のコントロールが、何となくうまくできない。かつては、薄着であっても寒いとは感じなかった。長らく、グルミューを正常化してあるはずなのに、最近になってダメになってしまった。

いきおい、厚着をする必要が生じる。股引きなどというものは、あまりはいたことがなかったのであるが、この冬からは常用になった。膝の神経を冷やさないためにも、保温が必要なのである。

いずれにしても、加齢とともにホメオスタシスが完全でなくなる。また、皮膚も弱くなるのだろう。まだ、私は懐炉(かいろ)や湯たんぽなどを使用しないが、いずれ使うようになるかもしれない。とにかく、身体の保温に注意する必要が生じてきたのは事実。何とかしなければならない。
もういやだ、つくづく思う、老いと病(やまい)、死。


生老病死(しょうろうびょうし)という言葉がある。「せいろうびょうし」ではなく、正しくは「しょうろうびょうし」。仏教の言葉で、人間が避けられない四種類の苦悩。つまり、生まれること、老いること、病気をすること、死ぬこと。四苦八苦ある最初の四苦(しく)である。

生まれることはともかく、老いるのはいやだし、病むのもいや、そして死も何となく恐ろしい。生老病死は、自分自身の問題としても忘れていたい。避けられないことならば、忘れているのも一計であろう。

しかし、日に日に衰えていく身体の現実はそれを思い出させる。また、身体の不調を伴う体調の変化も、それを忘れさせない。少しずつ老い、確実に病を得て、死につながっていく。まったく、忘れていたいことが現実になって、もういやになってしまう今日この頃。
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