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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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考えてみれば、多くの意味のなきこと。


よくよく考えてみると、かなりムダなことに日々あくせくしている。それが「意味のない」などということに、まったく気付かずにいることも多い。

人生には「しなければならないこと」と「してはいけないこと」がある。どうしてもしなければならないことは、生きていくということであろう。してはいけないことは、例えば「自分の欲望を追い続ける」ことではないか。

そんなことを考えると、無意味なことに努力をしていることがわかる。それに、愚かさの「痴・瞋・貪」が付きまとう。人生も残りわずかになると、「意味がなかったということに気付かなかった」ではすまされない。

この辺で、何とかしなければならない。
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「下らん」と言われてみれば、それまでのもの。


四年前に仲間たちと始めたホームページ。だんだんと大きくなって、1ギガバイトを超えてしまった。仕方がないので、暫定的にプログでサポートする方式にしてある。しかし、不便なので有料の10ギガバイトを申し込むつもり。

図体はでかいが、内容はお粗末なもの。つまり、内容の濃いものではない。だから、「下らない!」と言われてしまえばそれまで。ホームページと言っても、箱庭や模型などの趣味にちょっと似ているのではないか。

箱庭に「大自然がある」などと言っても、不思議に思う人がいる。また、模型の電車などは「走っても仕方ない」と思う人もあろう。
つまり、文学や美術や音楽なども含めて、価値観が異なると「わかってもらえなくても、仕方のない」世界なのである。
老いてから学ぶ気持ちが、あれば青年。


いつまでたっても、学ぶ気持ちがある。老いて、気力が失われかかっても。
素晴らしいことである。もしも、そうであれば若々しい証拠。
サムエル=ウルマンの『青春』の詩のように。

なぜならば、ふつうインプットはアウトプットに備えるのが原則。単なるガメクリや知識欲というのでは、何となく悪趣味の類(たぐい)。

不要なものが多すぎると、全体が不透明になってしまう。
自分なりに知識を整理して、アウトプットできるようにしておくのが、脳の若さを保つための秘訣であろう。

仏教の修行者の持ち物、イエス=キリストが言った旅に出るときの所持品、それらは必要な最小限のものであろう。つまり、多くを持っているほうが好ましいなどとは、決して言っていない。


多くある未処理事項を諦めるとき。


あれもしたい、これもしたいと考えたことが、今までに多くある。しかし、残る人生で、そんなに多くのことはできないだろう。いずれにしても、ぼつぼつ取捨選択をしなければならない時期になった。

つまり、さし当り生活に必要でないことは、諦めなければならない。
すると、残ったものは何であろう。生活をしていく上で、それがどうしても必要であるというものは。

今までもそうであったが、仕事といっても食うためにした場合が多い。また、打ち込んでしたことと言っても自己満足、悪く言えば自己欺瞞かもしれない。

考えてみると、心豊かに生きていくためにすることは、あまり多くないことがわかる。少なくとも、私の場合は。
ほどほどにしてはいけない! 知的空間。


自分自身の知的空間を構築するときに、ほどほどにしてはいけない。無限と言ってもよいほど広がっている自分の宇宙、つまり知的空間があるからだ。

その中には、小さな発見や小さな楽しみが無数にある。しかしそんなことをつい見逃してしまいがち。そして愚かにも目は、自分自身の外に向いてしまう。

確かに素晴らしい文学や芸術などはある。しかし、自分がその中に入れなかったら意味がなかろう。「猫に小判」や「豚に真珠」となってしまう。宗教などにおいてもしかり。

『正法眼蔵』に「法華、転法華」というのがあるが、その辺の事情を言っているのではないだろうか。




ただ今が、「一期一会」と思い知るべき。


「また今度しよう」とか「次の機会に」などと言ってはいけないらしい。そのときが、一期一会であるからだ。

もともと、「一期一会」(いちごいちえ)は茶の湯が「一期(いっき)に一度の会」であったことから起こったらしい。つまり、年一回か四回か私は知らないが、それでも「一生に一度」であるという思いで、その都度主人と客は真剣に対話を行うべきことを説いた。

後にそのことから転じて、「一生に一度しかない出会い」や「一生に一度だけ」であることを言うようになった。
私は、「また今度にしよう」とか「次の機会に」ということ自体、それも一期一会であると思うのだが、……。
水母(くらげ)には、脳がなくても目があるという。


ふつう、情報判断は五感をもとにして、脳が行っている。
水母(くらげ)には、その脳がないらしい。しかし、目が六つあるものがいる。越前くらげである。

どのようにして、目で捉えた外部の情報を処理しているのだろうか。
すでに、目に脳の機能が備わっているのではないか。したがって、くらげの場合は、別に脳という器官を必要としなかったのではないか。

人間などよりも、ずっと長い期間を生存してきた生物であるから、それはそれなりに理由があるのであろう。
私は学問とは別に感覚で、人間の脳という器官について、何となく異常な感じを受ける。また、さらに不気味さまで感じるのであるが、どうしたものだろう。
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