rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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日米の差を思うとき、争いはムダ。
若いころにアメリカ留学をしたという山本さんが言った言葉にも、そんな内容があったと思う。また、プールつきの広い住宅に住んでいる人が多くいても、不思議ではない。
考えてみれば、アメリカの人口は日本の二倍。そして、国土の面積は25倍である。単純に考えると、一人当たり十倍以上の土地をもっていることになる。資源についても、同じことが言えるのではないか。
そんな国を相手にして、互角に戦おうというのは愚かしいことかもしれない。短期的にはともかく、長期戦になると日本はジリ貧になってしまう。
私の母は先の戦争に負けた日に、「しっかりと勉強をして、アメリカを見返しなさい」と言った。「仕返しをしなさい」などとは、決して言わなかったことが印象的。私は、「知的空間で物質の不足をカバーする方法」を何とか思いついた。
若いころにアメリカ留学をしたという山本さんが言った言葉にも、そんな内容があったと思う。また、プールつきの広い住宅に住んでいる人が多くいても、不思議ではない。
考えてみれば、アメリカの人口は日本の二倍。そして、国土の面積は25倍である。単純に考えると、一人当たり十倍以上の土地をもっていることになる。資源についても、同じことが言えるのではないか。
そんな国を相手にして、互角に戦おうというのは愚かしいことかもしれない。短期的にはともかく、長期戦になると日本はジリ貧になってしまう。
私の母は先の戦争に負けた日に、「しっかりと勉強をして、アメリカを見返しなさい」と言った。「仕返しをしなさい」などとは、決して言わなかったことが印象的。私は、「知的空間で物質の不足をカバーする方法」を何とか思いついた。
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足萎(な)えて盲(めしい)る前に、歩いておこう!
今の状態から考えると、やがて歩けなくなってしまうでしょう。足や膝をやられて、車椅子のお世話になりそうです。また、もしかしたら目がダメになるかもしれません。網膜剥離の初期状態にあるからです。
そんなわけで、何とか歩けるうちは少しでもプチさん(プティ散策)。
晴れた日はデジカメをもって行って、思い出になるようなところでパチリ。考えてみれば、小さくてつまらないことかもしれない。しかし、それでも何とか日々の励みになっている。
したがって、文章のほうは概略のみ。もしも、歩けなくなっても時間があれば書き足すことができるなどと思っている。甘いかもしれないが。
そんな意味で、自分自身の先行きを見極めた一つの趣味・日課なのである。
今の状態から考えると、やがて歩けなくなってしまうでしょう。足や膝をやられて、車椅子のお世話になりそうです。また、もしかしたら目がダメになるかもしれません。網膜剥離の初期状態にあるからです。
そんなわけで、何とか歩けるうちは少しでもプチさん(プティ散策)。
晴れた日はデジカメをもって行って、思い出になるようなところでパチリ。考えてみれば、小さくてつまらないことかもしれない。しかし、それでも何とか日々の励みになっている。
したがって、文章のほうは概略のみ。もしも、歩けなくなっても時間があれば書き足すことができるなどと思っている。甘いかもしれないが。
そんな意味で、自分自身の先行きを見極めた一つの趣味・日課なのである。
プチさんは、老いたる日々の知的探検。
「知的探検」などとは、ちょっと大げさかもしれない。
しかし、大げさでもいいんだ。何事にも興味がもてるということは、老化予防の一つであるから。
サムエル=ウルマンの『青春』という詩にも、
<六十歳であろうと、はたまた十六歳であろうと、心中に不思議なものに興味をもつ気持、
子どものような未知への探求心、人生への興味と喜びがある。
あなたにも私にも、目に見えない中継所が心の中にある。>
というのがある。
その、未知への探究心、人生への興味、そんなことを手軽に、そして安全に求められるのがプチさん(プティ散策)なのである。
「知的探検」などとは、ちょっと大げさかもしれない。
しかし、大げさでもいいんだ。何事にも興味がもてるということは、老化予防の一つであるから。
サムエル=ウルマンの『青春』という詩にも、
<六十歳であろうと、はたまた十六歳であろうと、心中に不思議なものに興味をもつ気持、
子どものような未知への探求心、人生への興味と喜びがある。
あなたにも私にも、目に見えない中継所が心の中にある。>
というのがある。
その、未知への探究心、人生への興味、そんなことを手軽に、そして安全に求められるのがプチさん(プティ散策)なのである。
前回に行けなかったが、次の楽しみ。
プチさん(プティ散策)をすると途中で疲れてしまったり、寄り忘れたために行かなかったところが、かなりある。そして、そんなところがあってよいと思う。
それは、次回のときの大きな楽しみとなる。
なぜならば、記事も少しずつ書き足していけばよいからであり、また再訪したところに再発見などがある。そして、それがまた新しいよろこび。
そういえば、人生そのものの変化も少しずつの場合が多い。決定的な変化やダメージは、平和な社会ではむしろ少ない。ありがたいことだ。
いっぺんに物事を完成しようと思ってはいけない。ムリが生じるからである。少しずつ完成に向かうのが、いちばんいいんじゃないだろうか。
プチさん(プティ散策)をすると途中で疲れてしまったり、寄り忘れたために行かなかったところが、かなりある。そして、そんなところがあってよいと思う。
それは、次回のときの大きな楽しみとなる。
なぜならば、記事も少しずつ書き足していけばよいからであり、また再訪したところに再発見などがある。そして、それがまた新しいよろこび。
そういえば、人生そのものの変化も少しずつの場合が多い。決定的な変化やダメージは、平和な社会ではむしろ少ない。ありがたいことだ。
いっぺんに物事を完成しようと思ってはいけない。ムリが生じるからである。少しずつ完成に向かうのが、いちばんいいんじゃないだろうか。
黒田節(くろだぶし)歌えば、何か空しくもあり。
「黒田節」は、もと黒田藩の武士たちが今様形式の歌詞を作って、雅楽の『越天楽(えてんらく)』の旋律で唄ったという。昭和18年(1943年)に全国的に流行した。いわば、筑前今様である。
私は、酒を飲むと帰り道などで黒田節を歌った。かつては、遠くから聞こえてみっともないので、やめるようにと妻にしかられたものだ。しかし、最近は歌が出るようなことはない。
<酒は呑め呑め 呑むならば 日本(ひのもと)一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士 皇御国(すめらみくに)の 武士(もののふ)は いかなる事をか 勤むべし ただ身に持てる 真心を 君と親とに 尽くすまで 峰の嵐か松風か 尋ぬる人の 琴の音(ね)か 駒をひかえて 聞く程に 爪音(つまおと)しるき 想夫恋(そうぶれん) 君の晴着のお姿を 寿祝う鶴と亀 松竹梅のよろこびを 幾千代(いくちよ)までも祈るらん>
「黒田節」は、もと黒田藩の武士たちが今様形式の歌詞を作って、雅楽の『越天楽(えてんらく)』の旋律で唄ったという。昭和18年(1943年)に全国的に流行した。いわば、筑前今様である。
私は、酒を飲むと帰り道などで黒田節を歌った。かつては、遠くから聞こえてみっともないので、やめるようにと妻にしかられたものだ。しかし、最近は歌が出るようなことはない。
<酒は呑め呑め 呑むならば 日本(ひのもと)一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士 皇御国(すめらみくに)の 武士(もののふ)は いかなる事をか 勤むべし ただ身に持てる 真心を 君と親とに 尽くすまで 峰の嵐か松風か 尋ぬる人の 琴の音(ね)か 駒をひかえて 聞く程に 爪音(つまおと)しるき 想夫恋(そうぶれん) 君の晴着のお姿を 寿祝う鶴と亀 松竹梅のよろこびを 幾千代(いくちよ)までも祈るらん>
ちょっとした油断が、命失うことも。
平素からいくら健康であっても、決して油断をしてはいけない。
ムリをすると、やられてしまう。野球でならした大選手でも、少し前の状態によっては倒れてしまう。つまり、体内の水分が枯渇しかかったとき。
「油断」というのは、文字通り「油が切れた」状態であろう。機械は油が切れると、摩擦が大きくなって損傷してしまう。
人間の場合は、油ではなくむしろ水。
細胞の中に入ったり、血管の流れをよくしたり、水の効能ははかりしれない。
いつもポカリスエットを愛用していた先輩が、販売機がないままに半日我慢をしたら、倒れてしまった。夏の暑い日である。
とくに夏季は、注意が必要!
平素からいくら健康であっても、決して油断をしてはいけない。
ムリをすると、やられてしまう。野球でならした大選手でも、少し前の状態によっては倒れてしまう。つまり、体内の水分が枯渇しかかったとき。
「油断」というのは、文字通り「油が切れた」状態であろう。機械は油が切れると、摩擦が大きくなって損傷してしまう。
人間の場合は、油ではなくむしろ水。
細胞の中に入ったり、血管の流れをよくしたり、水の効能ははかりしれない。
いつもポカリスエットを愛用していた先輩が、販売機がないままに半日我慢をしたら、倒れてしまった。夏の暑い日である。
とくに夏季は、注意が必要!
することがない無学には、ほど遠い我。
すべてのことがわかっている人を「無学」という。そんな状態になるために、日々勉強をするのである。学ぶことがなくなってしまうということ自体、人生の完成かもしれない。
しかし、一方では「無学」になるためには大変な努力をしなければならない。いろいろ考えてみると、「学ぶこと」があったほうが日々の励みになるだろう。また、それがあるからこそ生きがいがある。
そんな意味で、「無学」の状態などは求めるべきでない。と、私は思う。
今のままで、よいのである。必要に応じてその都度とくに知りたいことや興味のあることを学んでいけばよい。どだい、有限の身で無限の知識を追うのは危ういことであると『荘子』には書いてあったと思う。
すべてのことがわかっている人を「無学」という。そんな状態になるために、日々勉強をするのである。学ぶことがなくなってしまうということ自体、人生の完成かもしれない。
しかし、一方では「無学」になるためには大変な努力をしなければならない。いろいろ考えてみると、「学ぶこと」があったほうが日々の励みになるだろう。また、それがあるからこそ生きがいがある。
そんな意味で、「無学」の状態などは求めるべきでない。と、私は思う。
今のままで、よいのである。必要に応じてその都度とくに知りたいことや興味のあることを学んでいけばよい。どだい、有限の身で無限の知識を追うのは危ういことであると『荘子』には書いてあったと思う。