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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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「こんなこと、いつかあった」と思うことあり。


道を歩いていると、ふと前にもここに来たような気がしたりする。
また、本を読んでいても、やはりすでに読んだような気がする。
デジャビュ(既視感)というのであろうか。

おそらく、その経験が遺伝子に組み込まれているのであろう。
過去の時代には必要であったことが、すでに科学技術の発達した現代では不要になってしまったり、意味がわからなくなってしまったことが多い。
だから、ふと記憶の中に似たことを思うということは、かつてはそれなりの内容があったのであろう。それが、すでに何故かわからない。

やがて、すべてがすでに行われていたことで、自分自身がそれを思い出せないだけではないかというような不安が脳裡をよぎる。旧約の『伝道の書』などを読むと、何となく不安になるのはなぜだろうか。

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くさってもベンツであるか? それは間違い!


谷沢川に沿って等々力渓谷を下り、ジブラルタ生命保険のところに出て、目黒通りが多摩川に突き当たろうとしたところにあった自動車屋の置き場。そこに、赤いベンツのスポーツカーが放置されていた。

「腐ってもベンツ」と言いたいところだか、実際はそうでない。

フェンダーに穴が空いていて、タイヤはすべて空気が抜けている。赤色も褪(あ)せて、もはや走ることもできないままに放置されている。

かつては、愛用された車であろうが、何とも情けない有様になっている。もっと早い時期にスクラップに出してしまえばよかったのだろうが、何らかの事情で残してあるのだろう。何となく、「恥をさらしている」ような感じである。

なお、写真は『青空のホームページ』の「老化予防入門」、そこの書きかけた「老人学」にあります。

ガラクタを集めて楽し、ホームページに。


よくゴミなどをため込んだ人のことをテレビでやったりする。部屋中いっぱいになったゴミの山で、身動きがとれない。
あるいは、部屋ばかりではない。敷地全体に廃品が置いてある。出入り口も満足に使えず、窓から出たり入ったりする。

そんなことを見て、バカなことだと思う。しかし、実際にそうであろうか。自分自身が、それとまったく同じことをしているから。

私のところには、実際に品物や廃品が身動きのできないほどあるわけではない。でも、それと同じことなのである。

実は、『青空のホームページ』の中。そこには、実に下らないものがゴタゴタといっぱいだ。何とかしなければならない。テレビでやっていた「おそうじ隊」のような人がいたらいいとも思うのだが、……

400と300くらいが、見やすい画像。


ホームページには、デジカメで撮った画像を張り付ける。
「百聞は一見に如(し)かず」などというが、くどくどと説明をするよりも、画像のほうがわかりやすい。

しかし、その画像である。
あまり小さくしてしまうと、かえってわかりにくいようだ。
そうかといって、大きくするとロードに時間がかかったり、メモリも大幅に使用してしまう。その辺が、むずかしいところ。

そこで、私は400ピクセル×300ピクセルくらいの画像を用いる。
それでも、かなり大きいのであるが、何となくわかりやすい大きさである。
しかし、説明の文書などは画像上に文字が書いてある。したがって、その大きさでは読めない。そんなときは、もっと大きくする。読めなければ、仕方ないからだ。
できるだけシンプルな日々、至福の至り。


「方丈の館」に住んだという鴨長明。
晩年は、「シンプル・ライフ」に徹した永井荷風。
そんな人たちの心情が、私にも何となくわかる。

生活の場に品物があふれては、煩わしいばかり。少ないものを活用するのがよい。あまり物を持ちすぎると、物に捕らわれた生活になってしまう。

むしろ、品や物によらず、豊かさは心の中の問題であろう。
心が豊かであれば、それでよい。と、私も思う。

ぼつぼつ古希である。品物を持とうという欲望は薄らいだが、まだまだ知識や興味に対する貪欲さは消えないようだ。
何とか、生活を改めていきたい。
ありがたいことだ! 自分がここにあること。


仏教の「人身受けがたし」ではないが、私は「自分自身がある」ことを不思議に思うとともに、つくづくありがたいことと思う。

まさしく、「在り難い」ことなのである。
だから、日々を大切にして有意義に過ごしたいと考える。

今さら自分があることの確率などを考えてもしかたがない。また、過去のことや未来のことをあれこれと考えてもしかたがない。

ただただ現在の一点で、あるがままにあるのがよいのではないか。
周囲のことに捕らわれずに、自分自身の置かれた位置を知って、少しでもよい状態になるように努力をしていけば、それでよい。人生などとことさらに言ってみても、始まらないのである。
老いたらば知識を生かし、一人で遊ぶ。


知識というほどのことではないかもしれない。
それまでの経験や知っていることの範囲で、いろいろと面白い工夫や楽しい再発見ができる。そして、そんな一つの方法が「プチさん」(プティ散策)。

駅周辺のとても小さな散歩である。そんな簡単なことでも、やってみると、あまり危険もなくて、なかなか楽しい。さらに、健康にもよいようだ。

デジカメがあれば、楽しみが倍増できる。なぜならば、臭化銀などの感光乳剤を用いた今までの鉛銀フィルムとは異なって、パソコン内での加工が容易であるし、気に入らない画像は削除をしてしまえばよいからである。

そんな「プチさん(プティ散策)の見本」は、『青空のホームページ』にある「美術エクジビション」をご覧いただきたい。

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