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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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「おばあちゃん、くさい」と言われ、ショックかくせず。


久々に、唐木田の福祉センターに行ってみた。
そしてMさんから、相談を受けた次第。

Mさんは、だいぶ前にご主人を亡くされ、子ども夫婦と同居をしている未亡人。還暦を過ぎたというのに、小ぎれいにしていて、若いころの面影をいまだに残している。

そのMさんが、愚痴を言って私にこぼす。
娘さんの子ども、つまり孫から「おばあちゃん、くさい」と言われたそうだ。そこで、どうしたらよいかの相談。

還暦を過ぎたころから、どうしても口臭・体臭・加齢臭などが気になってくる。身体(からだ)が衰えたり、新陳代謝が弱くなるのでいたしかたない。それでも、何とか目立たないように隠す方法があることはある。
そんな説明をいくつか具体的にしたら、納得されたようだ。


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もう一度会ってもみたい、なつかしい人。


過ぎ去った日々のなつかしい思い出が、今でも残っている人がいる。そして、何となく会ってみたい気持ちに駆り立てられる。
しかし、消息を調べてみるとすでに亡くなっていたり、よいよいになって寝たきりの人も多い。さらに、アルツハイマーになっちゃった人もいるようだ。

また、会ってみたら驚いたことに、すっかり変ってしまった人がいた。社会でいろいろと苦労をしたせいであろうか、何となくギスギスとしているのである。そして、話題がほとんど通じなくなっているのだ。
「集まり参じて、人は変れど」どころではない。

むしろ、会わなかったほうがよかった人もいる。
過去のなつかしい思い出をわざわざ壊すために、会ったような形になってしまうことがあると、何とも残念でたまらない。
もう一度行ってもみたい、なつかしい場所。


かつて行った場所で、何となくなつかしい思いがして、もう一度行ってみたいと思うことがある。

私は、小学校に上がる前に鎌倉の扇ガ谷に住んでいた。そしてその谷戸の突き当りが海蔵寺。横から山のほうへ抜けると化粧坂(けわいざか)、さらに銭洗い弁天を抜けて源氏山であった。旧大仏切り通しを抜けて、長谷寺で遊んだこともしばしば。入場料などが、なかった時代だ。

しかし、それならば一日がかりで行くことができる。
もっとなつかしい場所があるが、それがどこかがわからない。もしかしたら、探してもすでにその場所はなくなっているかもしれない。自分自身の原風景やデジャビュ(既視感)なども、意味がわからないままに気がかりである。

つきつめて考えると、母の胎内などに行き着いてしまうのではないか。
鳥肌が立つほどすごい、「キリストの棺」。


2008年2月24日(日曜日)、ディスカバリーチャンネルで「キリストの棺」というドキュメント番組を見た。このチャネルは、ナショナルジオグラフィックチャンネルとともに、私の大好きな番組。

たまたま見ていたら、「キリストの棺」ではないか。途中からであったが、最後まで引きずられて見た。思わず鳥肌が立つほど、興奮をした箇所があった。

私も、学生時代から考えたことではあるが、すべてが直感による想像なのである。いわゆる学問でもないし、裏づけがないから仮説とも言えない。
私の単なるフィクションの類でしかなかった考えを裏付ける科学が、次々と出てくるのがうれしい。ミトコンドリアのDNA検証などは、十分に説得力がある。

高校生のころからずっと考えていたのは、番組とちょっと異なるが、イエスの妻が「マリハム」であったこと、そしてイエスの兄弟が女であったことである。
溶け込んで生かされており、宇宙の中に。


私は、いま『般若心経』を研究している。まだ、その途中であるが。
しかし、何となくわかってきたことがある。それを「私の「般若心経」入門」にまとめていきたい。そんなことを考えている。

「宇宙」という言葉は、わかりにくいかもしれない。しかしもっと別な言葉で、私はそれを「空」と考えている。もともと、「宇宙」という言葉は、『淮南子』(えなんじ)によれば、「宇が三次元空間」、「宙が時間」のそれぞれの広がりを意味しているのではないか。

『般若心経』のほうは、自分自身で納得できる解釈を考えているが、なかなか難しい。「新約聖書」のときよりも、近づきがたい感じ。
最初のほうにある「舎利子。」という三文字についても、まだ何のことかわからない。架空の存在である観世音が実在の人物シャリープトラに話しかける意味である。
柳沢桂子氏は「お聞きなさい」と訳していたが、私はむしろ「皆さん!」という不特定多数に話しかけている言葉だと思う。
認知症、今日は他人(ひと)の身、明日(あす)はわが身?


正直な話。
ここのところ「物忘れ」「度忘れ」が、だいぶ多くなったみたい。
また、人の名前や物の名称が思い出せなく、なかなか出てこないことがある。
そのようなことは、今までになかったことだ。
ただ、加齢による単なる衰えや、一時的な変化に過ぎないのかもしれない。

でも、次第に症状が進んで本当の認知症になってしまった人が、知り合いの中に多くいるのも事実。

「同じことを何度も言ったり、聞いたりする」程度では認知症ではないだろうが、「以前にあった興味が失われてしまう」と、何となく認知症の兆(きざ)し。
また、「置き忘れ」「しまい忘れ」などのような物忘れ、つまり「百舌の速贄」が頻繁に生じると要注意。
プチさん(プティ散策)で、プチ発見のよろこびを知る。


日々プチさん(プティ散策)をすると、思いもかけない発見がある。
それは、あまり大きなことではないかもしれない。

しかし、何とも楽しいではないか。発見と言ったら大げさかもしれない。むしろ、再発見の楽しみとでも言ったほうがよいのではないか。今までに、あまり気付かなかったことにも、注意が向くようになる。

つまり、物に対する見方が変ってくるのであろう。
また、以前のように覚えをいちいちメモに取る必要がない。説明文や場所の表示などは、そのままデジカメで撮ってしまう。

ちょうど、交通の取締りをしている婦人警官が、証拠として違反車両やその場所をデジカメで撮っているように、自分自身の覚えになるのである。
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