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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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書きかけて、そのままになる「百舌の速贄」。


「百舌の速贄」(もずのはやにえ)とは、百舌(もず)という鳥が虫などを捕らえて、木の枝に刺しておく習性を言います。後で、食べるためのものですが、たいがいの場合は放置されてしまうようです。

つまり、どこに貯えたかを百舌が忘れてしまうのです。
そのようなことから、私たちが何かを中途半端にしたままで、未完成の状態でおくことなども言うようになりました。

ホームページに何かを書こうとして、書き始めます。しかし、それを忘れてしまって、完成できないことなど現実によくあることです。実に情けない次第。

「百舌の速贄」の記述自体も、何回目だろうか。yok先生のところにも、書いたうろ覚えがある。つまり、「百舌の速贄」の「百舌の速贄」を恥も外聞もなく繰り返している。
後でしようと思っても、できないことが多い。したがって、その都度ある程度の仕上がりにしておく必要があるようですね。


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行き詰まるシステムなどは、ほどほどにする。


何事も複雑になると、行き詰まってしまうらしい。
また、あまり完全を求めてもダメ。
ペルシャの絨毯(じゅうたん)は、昔からなぜか織り間違いを一箇所だけ残しておくらしい。どうして、そんなことをするのか。

「キリがないことを追求しては、キリがない。」

それでは、何となく同義反復(トゥトロジー)ではあるが、それは真実であると思う。アントニム(反義語)として、

「キリがないことを追求すると、キリがつく。」

と言って見ると、当然であることがわかる。
何が言いたいのか。言い始めると、キリがないだろう。

パラダイム・シフト、いくつかあって今日。


「パラダイム・シフト」という言葉がある。それは、歴史上にある大きな理論の変革のこと。例えば、
天動説 → 地動説
ニュートン力学 → アインシュタイン相対理論
そして、最近アメリカの学会で問題になり、ブッシュ大統領の教書にまでなった「インテリジェント・デザイン」。

そのインテリジェント・デザイン論は、例えば「脊椎動物の眼球の構造・組織」「鳥類や虫などの飛翔構造」「血液の凝固作用」などは、偶然と必然からできるという進化論によるよりも、何者かに設計されたと考えるほうが妥当だというもの。

前に読んだ本に、昆虫学者が研究をして、物理学的には飛べない羽の構造の虫がいるとあった。しかし、現実にはその虫がすいすいと飛ぶのである。
いずれにしても、価値観のターニング・ポイント(転換期)である。
目の中に万華鏡あり? キラキラ光る。


薬の飲みすぎであろうか?
目の調子が、突然におかしくなることがある。

ふつう、滝のように水が流れて視野が狭くなる。また、ときには極彩色の万華鏡のように美しい模様で、視界が覆われてしまう。いずれにしても、視神経が侵されてしまうためであろう。

しかし、じっとしていると間もなく治ってしまう。
やはり、目の使いすぎが原因かもしれない。パソコンのインプットを3時間くらい続けていると、その現象が起こりやすい。

いったい眼球や視神経というのは、どうなっているのであろう。
目には、単に生物学的進化では考えられない複雑な仕組みがあるようだ。
それは、あたかも高度な設計によって作られた被創造物ではないか。そんなことも、ふと私は考える。
橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌に、楽しみを知る。


<蟻と蟻 うなずきあひてなにか事ありげに走る西と東へ>

何とも面白いではないか。単に「蟻がお互いに何かの合図をして、東西に走り去った。」というのである。とくに、私が好きなのは『独楽吟』(どくらくぎん)。生活の中のささいなことにも、はっとするような楽しみがある。

<たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時>

平成6年(1994年)に天皇・皇后両陛下が初めてアメリカをご訪問されたとき、歓迎レセプションでクリントン大統領がこの短歌を引用したと漏れ聞いたことがある。

<たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人を見しとき>

<たのしみは世に解きがたくする書(ふみ)の心をひとりさとり得し時>

など、私も橘曙覧と同じ「生きる楽しみ」がある。
たのしみは、まれに友からメールあるとき。


久しく無沙汰をしていた友からメールがあると、ほっと安堵する。
そんなことも、大きな楽しみである。つまり、安心をするという贈り物があったことになるからだ。

橘曙覧(たちばなのあけみ)の短歌に、

<たのしみはまれに魚煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時>

というのがあった。
私は、すでに児等がいないし、魚も肉も好きでない。しかし、親しい友や妻と吉野家に行って、牛すき定食をお互いに「おいしい、おいしい」と言って食べるときは何とも楽しい。
メンテ料、振り込むときに連想したり。


今使っているDELL DIMENSION 8400を購入してから、はや3年。「保守サービス終了期間の終了」案内が手紙できた。そこで、銀行から2年の保守サービス料29,400円を振り込んだ。5年間は使えると考えたから。

そのとき、なぜか「でるですでむでん」という言葉、そして続いて「デデデン」という言葉を思い出した。

「でるですでむでん」は、ドイツ語の冠詞というのだろうか、その変化形。そして、「デデデン」というのは従兄弟に「デデデンのお兄ちゃん」といわれた三木さんのこと。

そして、さらに「ローゼンストック」の話を思い出した。
N響の常任指揮者だったローゼンストックではなく、Werner Bergengruenの「DER SPANISCHE ROSENSTOK」(スペインのバラ)である。
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