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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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何事も、エネルギッシュに進められない。

何でも精力的にするのが理想的である。しかし高齢になると、なかなかそうもいかない。すぐに疲れてしまうからです。張り切りすぎると気疲ればかりか、実際に身体も疲労してしまう。そこで、気分だけはエネルギッシュではあるが、実際には少しばかり手抜きをする。つまり、体力を消耗させないような仕事の仕方をするのである。いっぺんに多くのことをしないのも、長続きをする秘訣かもしれない。
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病がち、身体が弱くなってきたため?

私のことではなく、親しい友達。あんなに元気だったのに、最近は病がちだ。大学時代には、野球選手でならしたのであるが、二年前くらいから調子が悪いみたい。とくに、奥さんに先立たれてからは、次第に体調が衰えてきたようだ。病がちと身体が弱くなってきたのとは、どちらが原因で、また結果であるかははっきりしない。私が思うには、食べ物の結果による。外食ばかりで栄養が偏ったり、化学薬品を食べたりしているのが原因ではないだろうか?
生きている意味などはなく、ただ生きている。

しばしば、生きている意味を問われる。しかし、実際には、単に「生きている」だけなのである。生きている目的などを考えるのは、脳のもたらす一種の幻影であろう。落語の枕に、ごろごろと寝ている与太郎に、大家が説教をする話がある。大家が、「若い者は働け」という。与太郎は、「働くと、どうなる?」。大家、「働くと金が入る」。与太郎、「金が入ると、どうなる」。大家、「金が入れば、一日中寝ていられる」。与太郎、「もうすでに寝ている」。

思い知ること多くあり、日々の生きざま。

義姉が死んでから、私の人生観は大きく変わった。日々の生きざまについて何となく自信がなくなってしまった。それほど、義姉の死は私にとってショックであった。このブログで義姉として検索をすると、記事がかなり出てくる。その一つ一つについて呆れかえってしまうほどである。結局は、「何のために人は生きるか」というような本質的なことになってしまい、敬虔なクリスチャンではあったものの、人生について義姉から学ぶことはあまりなかった。
多摩川の堤防を行く、友と二人で。

親しい友と、昼食後に多摩川の堤防を歩くことがある。あまり長距離は歩けないので、サイゼリアのところから堤防に出て、京王線のガードの先くらいまでである。それでも、三月になると堤防には、オオイヌノフグリが咲いていたり、新しい緑が芽吹いていたりする。帰りは、ぐるっと回って、ふたたび聖蹟桜ヶ丘駅まで戻ってくるのだが、この間行ったときは、まだバス停の向こうにあるカイコウズには藁が巻かれていた。
強烈な個性が故に、友少なかりき。

この季節になると、親しかった友達のことを思い出す。よく、河津桜を一緒に見に行った大岩先生である。博覧強記の素晴らしい人であったが、ちょっと気むずかしく、誰とでも口論をしていた。長くトラブルなしで付き合ったのは、私くらいであろう。しかし、脳血栓で倒れてしまい、リハビリ中に亡くなってしまった。残念なことである。三鷹のSOHOでも、かなり論戦をしたようで、内容はアカデミックなものでも、口角泡を飛ばす勢いであった。
すぐ飽きる悪い習慣、治したくあり。

かなり以前からのこと。何かをしても、すぐ飽きてしまうのである。つまり、飽きっぽくなってしまった。興味や関心が、長く続かないのである。もしかしたら老いて、脳がダメになりかかっているのかもしれない。認知症の一歩手前だったら、どうしようかと思う。脳ではなくて、体力が減退したためかもしれない。とにかく、頑張りがきかないのを治したいのではあるが、とりあえず複雑な作業をするときは、細かいステップに分割をしておく必要があるようだ。
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