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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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朝起きて「今日も生きてる!」、新句を作る。


この新句(十九音)には、自分自身が「生きている証明」をするという目的もあります。

そこで、一日に一つ以上作るとよいでしょう。
とくに、その内容が文学的にどうであるとか、奥行きが深いとか、そのような必要はありません。

平坦なだらだらとしたものでも、内容の薄いものでもよいのです。
それ自体が、「生きている記録」なのですから。

そんな意味で、ぜひ新句(十九音)を始めてください。
説明は、

http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/nyu_577.html

にあります。
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人間の社会、どうやら飼育場(しいくば)なのか?


何となく人間の社会は、何か計り知れないものの飼育場の感じがします。
かつては、それを神などと呼んだのでしょう。

しかし、そんなに異次元のことを考えなくても、何となくわかります。

例えば、極端に言えば市役所の人たちが「市民を飼っている」と考えることもできるでしょう。なぜならば、飼っている者たちから自分たちの生活の費用が贖える(あがなえる)からです。

それは、飛躍をした考え方のようですが、家畜を飼っている牧場主と同じ論理なのです。
また、私たちの体内にいる寄生虫の言い分とも、似ているかもしれません。
最初に書こうとしたことをやめると、上のように意味がわかりにくくなるようですね。


念のため受けてみようか? エイズの検査。


手術前後のカテーテルから院内感染をして、体調を崩してしまってから久しい。おそらく、血液中にウイルスなどが住み着いてしまったのではないか?

その種類を特定したいので、まずエイズの検査を受けてみようと思う。
しかし、エイズの検査では

細菌としては、淋病。
ウイルスとしては、エイズ・B型肝炎・陰部ヘルペス・尖圭コンジローマ。
その他として、クラミジア・トリコモナス症・梅毒

などの有無がわかるらしい。
しかし、私の場合はそれらではなく、意外にも歯周菌・クリプトコッカスなどではないかとも思うんだが。そして、検査項目にないので引っかからないのではないか。

それでも、しないよりはいいだろう。
アオサギは神経質か? すぐに飛び去る。


多摩川の畔(ほとり)や田の畦(あぜ)のそばに、ときどきアオサギがいる。
大きくて美しい鳥だから、よく見たいと思って近づきます。すると、すぐに飛び去ってしまう。

真っ白いダイサギやコサギと比べて、非常に神経質な鳥みたい。
人間には、まだあまり慣れ親しんでいないようだ。

私は、「つげよしはる」という人の書いた『鳥になる人』というストーリを思い出す。(氏名も書名も、ともにうろ覚えです。)
そこには、飼い慣らされたアオサギが鳥師の後について調布の団地ができる以前の染地(そめじ)辺りの鳥屋にやってくるというくだりがあった。

そして、その鳥師だったかが、高いところから羽ばたいている姿が印象的であったから。


五十音、組み合わせれば新句ができる。


五十音を組み合わせて、五七七のリズムに合わせれば、新句(十九音)がそれなりにできる。

出来栄え(できばえ)は、あまり問わない。
自分がいいと思えば、いいのである。

評価される必要もないし、また芸術性である要素も不要。
つまり、独り善がり(ひとりよがり)と言われても仕方がない新しい方式の短詞形なのである。
また、その出来不出来さえも前例がないので、比較ができない。
「松尾芭蕉の俳句と比べると雲泥の相違」だとか、「石田波郷には及ばない」などと言えない。
なぜならば、幸福なことに、芭蕉や波郷は新句を残していないからです。
諍い(いさかい)を妻とするのは、愚かなことか?


つまらないことで、つい妻と諍い(いさかい)をする。
愚かな人間と言い争う人間は、愚かな人間であるという。何で読んだのか、誰の言葉であったのか忘れた。

妻は、どうやら愚かな人間らしい。
その妻と、私は言い争う。すると、私も愚かな人間であることになる。
非常に、残念なことだ。

そもそも、争いは利害関係が対立したときに起こるらしい。
ここのところ、お盆に入ろうとして、テレビでは先の戦争の番組を恒例の企画として取り上げる。
聞いていて、国と国とのような大きな問題でも、私と妻のような個人的な些細(ささい)な問題でも、何となく共通した箇所があることに気付く。

それは、大きいか小さいかの違いはあっても、利害関係の対立である。
キリのないことはしないで、まとめていこう。


人生において、次々とものを求めていく。
キリのないことである。

『荘子』(そうじ)にもあるように、

<有限の身でもって、無限のものを求めていくのは危うい。>

と、私も思う。
それよりも、集大成をしていくことが必要。とくに、人生の終わりに近くなったときには。

求めるのはほどほどにして、今までのものをまとめたり、整理することのほうが大切ではないか。
持っているものの整理や分類などであるが、例えば小さいことでデジカメ写真の整理なども、そのようなことにあげられるであろう。

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