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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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とりたてて言うほどのこと、ない日も綴る(つづる)。


とくに言うことがないときには、日誌などでは「とくになし」などと書くようです。しかし、この五七七では些細なことでも、どんなことでもかまいません。

また、ものごとは別な角度から見ると違った感じに見えることもあります。そんな体験をするのも、よいかもしれません。

短歌や俳句などでは、同じ作品を忌諱(きい)するようです。
しかし、この五七七では何回も同じ作品を作ってかまいません。

あいうえお順(五十音順)で並べると、同じ作品に気づくはずです。同じ作品があるときは、それだけその作品の内容に関する印象が強かったと思えばいいのです。

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目が悪くなければ、すぐに百首でもOK。


私は目が悪いために、画面を長く見れません。
もしも、目が悪くなければ、続けて百首くらいはできるでしょう。

そんなに簡単な五七七ですが、やってみると思い出になる内容もあるので驚きです。

目が悪いと、何となくやる気がなくなってしまうことも事実です。
すぐに、疲れちゃうのです。

そんなときは、眠ることにします。
少し眠ると、また元気が出てくるからです。

元気と疲れのインターバルが、かなり短くなっちゃいましたけれども、……

ふと思うことでもよいし、備忘でもよい。


五七七は、思いついたことや備忘のメモでもかまいません。
むしろ、そんな気持で作ったほうがよいでしょう。

文学性や詩としての美しさなどは、二の次になります。
生きていくときに「ふと思いついたこと」、そして「忘れないためのメモ」、そんな内容のほうが大事なのです。

つまり、この五七七は、私たちの「生活の一部」なのですから、それがとくに優れた美しいものとはかぎりません。

例えば、私たちの生活には排便や排尿があります。
どんな美しい女性でも、ウンコもしますし、オシッコもするでしょう。その部分を五七七では、隠す必要がまったくないのです。
駄作でも、意味がなくても、作ってみよう!


俳句や短歌とは、アプローチの仕方がまったく異なる五七七です。
形は似ていますが、姿勢が異なるのです。

文学を目指すということよりも、自分自身が「生きている証明」をしようというのです。したがって、あまり文学性を問いません。
むしろ、人生に対する直向きな(ひたむきな)姿勢が問われるのです。ちゃらんぽらんな生き方では、いけません。

真面目に日々を過ごしていくということが、大切です。
間違ったことをしないようにして、自分の力をできるかぎり発揮させるのです。
そして、そこに「日々の生き甲斐」を発見しようとします。
そんなための五七七なのです。
お二人は古来稀(こらいまれ)なり、ますます盛ん!


友達が二人来てくれて、三人で話した。
私の他の二人は、すでに古希を過ぎている。最近は、かつて杜甫が『曲江詩』に書いたたように、「人生七十古来稀なり」などとは言わない。
ちょっとも珍しいことではなく、むしろふつうである。

しかし、である。
私は、還暦を過ぎたころから健康に自信がなくなってしまった。
しかし、いっぽう古希をすでに過ぎたお二人は、ますます盛んである。

まったく、うらやましい限り。学びたいくらい。
いちばん若いのに、気分や気力は、いちばん老けている。
そんなことを発見して、愕然とした。

本当は、言い訳などをするつもりない。


「何で、こんなくだらない文章を次々と書くのか?」

という質問をいただいた。さもありなん、である。
自分自身でも、そう思うから。

1ヶ月ほど前に、「すでに、1000首ほど作った」と大風呂敷をやった。
すると、読ませてくれというではないか。
そこで、メモにしてあるんだがインプットをしてない、と言い訳をした。

そんなわけで、思いついたものを整理して1000首になるまで入れてしまおうと考えた次第。

おそらく、すでに半分くらいになっているだろう。
そのほとんどが、駄作ではあるが、……

なすべくもなきときにこそ、五七七する。


老いてくると、自分のほかに興味を示さなくなってしまう人が多い。
中には、自分自身のことでさえ、お構いなしになっちゃう。私の知っている人で、なかなか下着を替えない人がいた。

何となく臭い(くさい)臭い(におい)がする。
だから、無沙汰をするようになって、とうとう会わなくなってしまった。喧嘩をしたわけではないが、……

でも、古くから聖人で汚い人もいたという。
しかし聖人のことを書くのは、ちょっと差し障りがあるかもしれない。

例えば、私の尊敬する桃水(とうすい)やその弟子のじん洲(じんの字は忘れた)たちは、おそらく臭気芬々(しゅうきふんぷん)として、鼻をつくような悪臭がしていただろう。

私は、彼らを文献で読むだけだから、その挿絵(さしえ)を見ても大丈夫。だから、最初のころから変わらずに尊敬をしている。
桃水がキリシタンの疑いをかけられないようにと、阿弥陀如来の大津絵をくれた人がいた。彼は、その絵の上に

 <せまけれど宿を貸すぞや阿弥陀さま、後生(ごしょう)たのむと思し召す(おぼしめす)なよ>

と消し炭で書いたという。

五七七では、書こうと思ったことが、途中で脱線してもよろしい。

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