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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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生かされている心地して、日々が過ぎゆく。


自分が「生きている」という実感よりも、何となく「生かされている」のだという感じがする。いったい、人生とは何だろうか?

『コヘレットの書』(伝道の書)には、死んだときのことを
<15: 彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で帰って行く。彼はその労苦によって得た何物も、手に携え行くことができない。>
と書いてある。

また、日々生きている間の警告として
<11: 言葉が多ければ空しいことも多い。人に、何の益があるか?>
ともある。
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「もうダメだ」などと思って、今年も過ぎた。


いろいろなことがあった一年である。長男の死、群馬県太田市だった。何度も往復して、後の整理が大変であった。

私自身は、あまり体調の優れない一年。おそらく、糖尿病が進行をしたためだろう。何とか日々過ごしているが、いつも何となく気分がよくない。

『コヘレットの書』(伝道の書)に、
<17: 人は一生、暗闇(くらやみ)と、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。>
とあった。まったく、その通りだと思う。
一つずつ治してもダメ、つながっている。


すべてがそうとは言わないが、たいがいは個別的でなく総合的に関連している欠陥である。つまり、複雑な関係があって、それが結果として出てくる。

私たちの身体は、非常に複雑な構造をしている。したがって、群盲象索ではないが部分的に見てもダメ。例えば、腹がチクチクするときに、胃や腸のこともあろう。しかし、外部から針が刺さったようなこともあるかもしれない。

そのようなことを考えて、症状があったときに全体的なことを考えなければ、原因を見逃してしまう。つまり、気付かないのである。一つずつ治すのでなく、全体的に見て、その原因となり箇所を最初に、そして関連する箇所を次々と治していく。そうすると、原因の箇所だけで全体が治ることもあるでしょう。
音楽は心を癒やす、私の薬。


音楽が薬というのは、おかしいかもしれない。私はパソコンをするとき、BGMとして音楽を鳴らす。真夜中でもそうであるが、音が迷惑なので耳がすっぽりかぶるレシーバーで聞く。そうすると、音質がよく臨場感も増す。

聞く曲は、たいがいYouTubeからピックアップしたもので、演奏の実演が付いているものが多い。しかし、BGMなので単に画像だけでもかまわない。

いずれにしても、心が癒やされる。日々のメニューとして、あらかじめ前もって『名曲ライブラリ』に登録をしておく。わかればよいので、かなり略語を用いて短くする。つまり、その日に用いる自分の薬を用意しておくように。……
ほどほどにするのがベスト、何事も。


何事にも、つい熱中してしまう。特に、最初のころはそうである。「これでもか、これでもまだか」というように続ける。

しかし、やがて疲れちゃう。そして、勢いが衰えてくる。飽きたわけではないが、最初のような情熱が湧かなくなってしまうのである。

やはり何事も、ほどほどにするのがよい。そして、やっているうちにその奥義を発見できることが好ましい。それは、あたかも『コヘレットの書』に述べられているように。最初は、少しずつ慎重に進めていくのがよいでしょう。


私には、使い切れないパソコンソフト。


いろいろなソフトがあるが、私にはなかなか使い切れない。

例えば、
(1) Facebook・Facebookページ
(2) Google+
(3) YouTube
(4) Skydive
などである。

もっとも、それなりに必要なソフトをインストールしたり、セットアップをして使ってはいるが、まだまだ「使い切れていない」とう感じ。つまり、細かい仕様がわかって、自由自在に用いることができないまま。

何となく、すべてがムダであったような気。


私も古稀を過ぎ、ぼつぼつ人生を振り返ってもよい時期なのであろうか。すると、何となく今までにしてきたことが、すべてムダであったような気がしてならない。もっとも、その中にはわずかであるが、自分自身で納得をするようなことも、ないことはないが。

いったい人生とは、何であろうか。そんなことを考えると、いたたまれない気持ちになってしまう。

さらに、死んだらどうなるであろうかなどと考える。そして、考えると言うことは何かなどと、とりとめのないことを考える。『パパラギ』にあったツイアビの演説に「考えるという重い病気」というのがあったと思う。
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