忍者ブログ
rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
ブログ内検索
ご案内


現在、このプログではコメントなどを受け付けていません。
お恥ずかしい個人的な内容が多いからです。それでももしも、ご意見やご質問があればここから願います。


似顔説明

[97]  [98]  [99]  [100]  [101]  [102]  [103]  [104]  [105]  [106]  [107
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

あいさつをする人、しない人、さまざまだ。


「人さまざま」という書物を読んだことがある。ギリシア時代の話ではあるが、現代の身近な人にも言えること。しかしここでは、テオフラストスが書いているような高度な癖などではなく、まったく基本的なことを言おう。

例えば、あいさつ。これは知っている者どうしの常識。しかし、最近は互いに顔見知りでもしない。そんな風潮である。マンションのロビーやエレベータの中、互いに黙っている。きっと少しでも、かかわりたくないのかもしれない。

しかし、ハイキングに行ったり、堤防を歩いていると、気軽にあいさつを交わす。おそらく、それはそのときだけの行動で、後になっても何ら関係しないと考えるからだろうか。書物に出てくるような諂いは不要だが、もう少し互いに礼儀が必要なのではないだろうか。
PR
何となく、朧げ(おぼろげ)ながら死を考える。


朧げ(おぼろげ)は、はっきりしなくて、まだ不確かなことである。

(1) 人間が物質化をしていることのほうが、異常な状態ではないだろうか。
(2) 「自分が自分自身の肉体の外にいる」感覚は、一人の人間が肉体だけで構成されているのではないという可能性をもっているのではないだろうか。
(3) 臨死体験は脳が感じたり、意識したことであろうが、脳以外にも私たちをコントロールする何かがあるのではないだろうか。
(4) 死に関して、現代科学が無知であるような感じを受けるのはなぜか。
(5) オッカムの剃刀ではないが、仮説を少なくして、直感で考えるようなことができないのはなぜか。
(6) 何となく、脳に問題があるような気がする。
http://www.facebook.com/note.php?created&¬e_id=265845020100143
意識とは、顕在意識・潜在意識。


「意識」には、「顕在意識」と「潜在意識」が存在する。特別に「顕在意識」などと言わないかもしれないが、「顕在」とは「はっきりと形にあらわれて存在すること」を言い、「潜在」に対する言葉である。つまり、私たちの意識である。

「潜在意識」は活動をしてはいるものの自覚されない意識のことで、いわゆる隠れた意識である。この意識が、非常に大切なのである。

なぜならば、「意識」と同時に「意思」を考えなければならないからである。もともと意識とは心が知覚を有しているときの状態で、対象の物事や状態に気づくことである。はっきり知る場合と、単に気にかけるだけのことがある。対象をはっきり知るためには、その物の意思を感じなければならない。
人生の意味や目的、何であろうか?


いろいろ考えると、人生の意味や目的など、個人差や価値観によって大きく異なる。さらに、つきつめて言ってしまえば、そのようなものはないのではないかとも思う。

それを右往左往して、一生の間、せっせと追い求める。単に心を充足させるために、独自に考えた方法が行われる。その際に、あまり他人のことなどを考えない人がいる。自分さえよければよいと、自分が決めているのだ。

日々の心地よさが、人生の目的なのではないか。そのために、意味付けや方法論が云々される。他人を不幸にしてまで、自分自身の幸福が得られるのであろうか。現実には、意味のないこともあり、また目的などを設定しなくてもよい場合がある。人生も、そんなものではないだろうか。
個人差もあるが、互いに意見を言おう。


健康について述べるときに、ふつう一般論を言う。個人差の考慮をしないと、逆効果になることなどを考えない。だから、長年にわたって健康について、国やNHKなどで喧(かまびす)しく言っているのに、一億総病人というような状態になってしまったようだ。

つまり、平均的なことから自分がどれくらい偏っているかを、誰もが認識しておく必要がある。しかし、そのような趣旨で云々されることは少ないようだ。

そこで、「理工式健康法」を考えてみた。誰もが気軽に意見を言える訪問者参加型のホームページにしてあるから、大いに参考になるのではないか。
http://www.facebook.com/kenkokai?v=app_112493455447504
自分史を作ってみよう、老化予防に。


とくに、自分が偉大なことをしたわけでない。だから、伝記などの必要はないかもしれない。ここで、「自分史」などを書くというのは、単に自分がぼけてしまわないための工夫である。

つまり、ぼけてしまえば自分自身では何も書けない。逆に、いろいろと書いてみると記憶が新たになって、ぼけにくいのではないかと思う。

そこで、いろいろな方法がある。いちおう編年体で書いていくのが、自分自身でもわかりやすいのではないだろうか。また、自分が死んでから、もしかしたら子どもが読むかもしれない。あるいは、そのまま反故(ほご)になっちゃってもかまわない。そんな姿勢でやってみた。恥ずかしい内容のものであるが、……
http://www.geocities.jp/rikwhi/riko/sakusya_all.html
次々と新しいこと、するのもよいが……


目新しさに釣られて、次々と新しいことを始める。それはそれで、よいだろう。しかし、「温故知新」などとも言うではないか?

今までにやった中途半端のもの、つまり仕掛かり中のものも、何とか完成をしたい。また、日にちを経過してみると別の見方になったり、そのもの自体に価値がないのではないかと思ったりする。あのときはどうして夢中になったのだろうかなどと考える。そんなことは、やめてしまえばよい。

キリがないことが、やがてわかる。しかし、観客やユーザのある場合、求めに応じて次々とすればよい。「注文の多い料理店」ならばまだしも、顧客が無いばかりではなく、したがって注文がまったく無いのであれば、もはや閉店してしまったほうがよさそうである。
忍者ブログ [PR]