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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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限りなく透明に澄む秋の青空。


私は、秋の青空が好きだ。まだ、風が冷たくならない前に、デジカメをもって郊外を散策する。空は青く、空気が澄んでいる。白い雲が、ゆっくりと漂っていることもある。

限りなく透明に近いブルーというのがあったが、それがどんな感じかはわからない。私が言うのは、突き抜けるような感じの青空のこと。むろん上空では、風が流れているのだろう。雲が少しずつ動いているのでもわかる。

青空があると、デジカメの写りがよい。デジカメ自体は正直なのであろうが、曇っていると建物や背景の色と空の色が馴染んでしまい、コントラストが悪いのである。宇宙飛行士が地球の青さをみたときに感じたことが、私も何となくわかるような気がする。
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つるつるという温泉のバスに乗りたい。


これでは、いったい何のことかわからないでしょう。東京都日の出町に、「つるつる温泉」があって、そこへは武蔵五日市駅からバスがあります。そのバスなんです。それは、「青春号」という機関車バス。

トレーラーバスを蒸気機関車の外形に改装をしたもので、かなり大型のバスです。エンジンの付いている運転席の部分に客車が連結されている構造で、運転には大型牽引車の免許が必要です。まだ私は乗っていませんが、先日見たら運転手も客車に乗る車掌も若い女性でした。

かつて、武蔵境から東京駅までの路線にトレーラーバスが走った時代がありました。昭和二十年代でしたが、進駐軍の関係だったのでしょう。武蔵境の北口から獣医大学の正門の前に曲がる踏み切りで、ずいぶんと大きく回って向きを変えたことを覚えています。
むずかしい短歌・俳句は、新句にしよう!


短歌や俳句は、それなりの決まりがあって、なかなか難しい。また、芭蕉の句や万葉集の短歌を見ると、自分自身の作品が何となく幼稚に見えて仕方がない。もっとも、大いに勉強して多くを学べば、自ずと優れた作品もできよう。

しかし、この新句(十九音)のように簡単な短詩形はないだろう。単に音数を合わせればよいだけ、その他に決まりらしいものはない。つまり、五・七・七を基本形として、十九音にまとめればよいのだ。

だから、私は日々の「覚え」や「記憶の断片」、さらには「生活の知恵」などに用いる。それは、ふと思いついたことや単なるメモである場合も多い。でも、そんな短詩形であっても後で約に立つこともある。なぜならば、作品であれば忘れてしまわないからである。
面倒なことは、いまさらやりたくもなし。


もしかしたら、「老い」と「衰え」がかなり進んだのかもしれない。かつて、仲間への警告として「面倒くさい」とか「疲れた」などとうっかり言ったら、ダメだと話したことを覚えている。かれこれ十数年前のことである。

そのような言葉を使うと自己暗示をともなって、本当にそうなってしまうということを心配したからだ。そのころは、まだ客観的な配慮ができたのである。

しかし、最近になって自分自身が本当にそうなってしまったみたい。やはり、少しずつ「老い」が進んで、急速に「衰え」がやってきたようにも思う。どうしたもんだろうか。どうしたら、よいのであろうか。
心地よさ追求しても、なかなか難(かた)し。


「生きがい」というか、「生きる目的」の一つは、「心地よさ」の追求ではないでしょうか。単に「心地よさ」と言っても、肉体的なことばかりではなく、精神的な充足までを含んでいることでしょう。

その「心地よさ」が、なかなか現実になりにくいのです。少しの間、その状態にあっても体調が崩れたり、身体のどこかが悪くなると、すぐに失われてしまいます。また、人間関係の問題などから「心地よさ」が崩れ去ることがあるかもしれません。

そんなわけで、あたかも山の頂上にいるみたいなもの、そこは不安定な場所なのです。ちょっと風が強く吹いたりすると、吹き飛ばされ落ちてしまいます。だから、その「心地よさ」の状態にいるためには、それなりの努力をしなくてはなりません。
現代は、ルール違反が社会に多い。


何故だかわからないが、現代社会にはルール違反が多い。多いどころか、蔓延をしているのである。商社が生産地を偽ったり、農薬の使用などを隠蔽することは、日常茶飯事。誰も気がつかないままに、行われているようだ。

いったい良識などは、どこへいってしまったのだろうか。儲かれば何をしてもよいと言った経済構造であるから、仕方がないのかもしれない。

それをプロレスの試合に例えてみよう。試合ごとに救急車が来て、レスラーを病院に担ぎ込む。そして、死者が次々と出る。そんな試合が、あるだろうか。レスラーは、それなりに決してルール違反をしていないから、そうならないのである。ショーとしての違反はあっても、根本的な違反をしないから、死者が出ないのであろう。
『円空』というドラマ見て、すごいと思う。


テレビで『円空』というドラマを見た。円空(1632?~1695)は、江戸初期の僧で、生涯に十二万体の像を作ることを発願。諸国を経巡って布教しながら、円空仏とよばれる仏像を制作。円空仏は木彫りの仏像で、鉈(なた)で彫った素朴で大胆な作風。現在、二千数百体が発見されている。

私が見た映画は、丹波哲郎が円空、樹木希林が女弟子のような形で語り、他に倍賞美津子なども出ていた。ものすごく迫力のある映画だった。とくに、円空が最後に即身成仏になるくだりは素晴らしい。

その入定(にゅうじょう)であるが、自然の成り行きで、演技もぎこちないところがなく、何だか現実を見ているような感じだから、不思議である。そこで丹波さんが亡くなったわけでないが、希林さんの語りによって、ものすごい効果を出していた。
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