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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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現実にあった話か? ソドムとゴモラ。


ソドム(Sodom)は、ゴモラ(Gomorrah)とともに、『旧約聖書』の「創世記」に記述されている都市名。実際に、死海南端付近にあったと伝えられ、そこの住民たちは、罪悪のためにゴモラとともに、神の火によって焼かれて滅びたという。罪悪に対する神の審判の一例として、聖書にしばしば登場する。

「天罰覿面」という言葉がある。この言葉は、悪事を働くと直ちに天罰が現れるという意味であるが、ソドムとゴモラの場合は、かなりの時期が過ぎてから天罰が下ったようである。

信心深いロトがツォアル町に避難すると、ヤハウェはソドムとゴモラを滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので塩の柱になった。ヤハウェはアブラハムに配慮をして、ロトを救い出したのである。
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病みてより、なすべきもない日々続きたり。


高血圧と糖尿病にやられてから、それを治す工夫をしている。高血圧は上が220、下が200近くもあったのが、何とか上160以下、下95以下、つまり境界値まで下がった。しかし、糖尿病はまだまだである。食間に計ってみると、何と2000mg/dlも出ている。真っ青である。

腎臓の機能は、もはや回復をしないかもしれない。糖質制限食などで、何とかしなければならないだろう。もはや、闘病生活をやむなく続けている次第である。したがって、他の人生における計画などは、ままならない。

そんな日々ではあるが、もはや諦めた。太田事件があった後は、とくにそうである。生きながらえているだけ、運がいいのかもしれない。重度の糖尿病であっても、まだ失明もしていないし、壊疽になって足の切断もしていない。透析なども、まだ。はたして、その期間がいつまで続くかわからないが、その間に何とかライフワークを進めていきたい。
プラズマは火の玉、そして人の本質。


プラズマ(plasma)とは、高度に電離した物質の正イオンと電子とが混在している状態を言う。つまり、超高温において電子をはぎ取られた裸の原子核が飛び回っている状態のこと。生理学では「血漿」(けっしょう)。細胞学では「原形質」を言う。

さらに、「トキソプラズマ」のような形で菌の名前に用いられている。多くの分野で用いられる言葉であるが、私は「人の本質」や「人の死後の姿がプラズマ」ではないかと考えている。

確かに私たちの活動は、あまり早くない。しかし、それは人間の考えた時間系の中での早さの感じなのである。実際には、プラズマのような早さで活動をしているのかもしれない。何となく、そんなことがわかり始めたのである。
衰えと言うのだろうか、萎え(なえ)かも知れぬ。


ここのところ、日々の疲れが激しい。太田事件の後は、もうまったくである。糖尿病のせいだろうか、眠りが分断されることも、疲れを増す原因のようだ。

もっとも、自分が古希を過ぎたので、それは当然のことかもしれない。身体にバイタリティーがないのである。群馬県の太田市を日帰りで往復すると、がっくりとする。私もそうであるが、悦子はもっと疲れるらしい。

身体が萎えてしまったのだろう。そして、そこへ精神的な問題が付け加わる。それは、一晩寝ても、回復ができないようだ。ひっくり返ってしまわないだけ、まだ救われているのかもしれない。夏の過労はバカにできないので、注意が必要である。
ルンビーニ、マルガリータは、難解な語句。


ルンビーニ幼稚園とかマルガリータ保育園などがある。ルンビーニは仏教系経営の場合が多いが、マルガリータはさまざま。

ルンビーニ(ルンビニ Lumbini 藍毘尼)は、ネパールの南部タライ平原にある小さな村。釈迦の生まれた地で、仏教の八大聖地の一つ。

いっぽう、マルガリータは人名のようでもあるが、町田市では子どもの施設名に用いている。小山田にあるバット博士記念ホーム内の施設「マルガリータ」である。小山田の蓮池やバット博士記念ホームには何回か行ったが、まったく不便なところである。
私には本は友だち、パソコン身内ち。


学生時代には、本をよく読んだ。まだ、パソコンなどのない時代である。せいぜいカセットテープがあって、講演などの録音をしたものを何回も聞いた。

それが、いつしかパソコンになってしまった。最近は辞書なども、すべてパソコンによる。また、グーグルやヤフーの情報を検索して、調べることも多い。地図などは、縮尺や場所の移動などが自在なので、パソコンのほうが便利である。グーグルのものは、航空写真のほかにストリートビューまで見ることができる。ありがたい話だ。

したがって、もはや私には「本は友だち」「パソコンは身内(みうち)」と言ってよい関係なのである。
なつかしい場所に行(い)きたし、命ある間に。


芭蕉の「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」ほどでもないが、何となく最近になって今までに行ったなつかしい場所に、もう一度行きたいと思うようになった。行きたいと思っても、異国になってしまった満州や台湾はムリであろう。

また、はるひ野駅前のように再開発をされて、すっかりパストラールの風景を失ってしまったような場所に行っても、仕方がないであろう。

かつてのように体調がよくはなく、ここのところ歩行や外出も、ままならない。それでも気分のいいときは、半日がかりでも行ってみたいと思う。さらに、体力や体調が衰えないうちに、名とか行って見たいと思うのである。
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