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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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プチさんは、「犬も歩けば棒に当たる」か?


「犬も歩けば棒に当たる」という諺(ことわざ)がある。もともと、「何かしようとすれば、災難に遭う」という譬(たと)えであった。しかし、それが最近になって「出歩けば、思わぬ幸運に廻りあう」というような逆の場合にも使われるようになったみたい。

私は、「健康」と「老化予防」、そして「安心立命」のために、晴れた日は寺院廻りをしている。とくに、大仏や大観音を探しているわけでない。それなのに、幡ヶ谷の清岸寺に魚籃観音を尋ねたら、大きな聖観世音菩薩もおられた。本郷三丁目に腰衣観音を見に行ったら、見事な十一面観音にも出会えた。浅草の待乳山聖天へ出世観音像を探しに行ったら、隣りの慶養寺に寄ると偶然にも大観音にお目にかかれた。

まさしく、「犬も歩けば棒に当たる」である。
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栗の木の香り、なつかし若き日のころ。


六月の梅雨の前後に、栗の木は花が咲く。その独特の香りである。何となく精液の匂いに似ているのではないでしょうか。そしてその時期になると、私は自分が若かったころのことを思い出す。

若かったころは精力絶倫であって、精液もたくさん出た。そして、その匂いも強かったように思う。そんな時代の思い出が、栗の木の花が咲くころによみがえってくる。

匂いは記憶の中で、かなりイメージが確実である。風景や言葉などは時間とともに、おぼろげに薄れてしまうが、嗅覚は本能的な印象で、強く残っていることが多い。幼いころに抱いてくれた祖母の匂いなどを覚えている人が多いのではないだろうか。嗅覚は、基本的に生存を支配する機能なので、記憶にしっかりと焼き付けられるのかもしれない。
次々と増やすことより、整理が大事。


文字通りの意味。興味や欲望にかられて、次々と増やしていく。しかし、そんなことを続けていくと、収拾がつかなくなってしまう。集めたものの整理がつかなくなると、何のために集めたのかがわからなくなってしまう。そこで、整理をすることが必要になる。

しかし、物の蒐集は工夫をすれば何とかなる。たいへんなのは、文章や写真などのいわゆるドキュメントである。自分で書いた記事であるが、増えてくると何がなんだかわからなくなってしまう。その上、書いた時期がかなり前後するから内容に矛盾を生じてくる。つまり、考え方が変化をしたのである。

そんなために、書き残すのをやめてしまおうと考えたこともあるくらい。でも、いっぽうでは「生きる証明」としての価値があるから、何とか整理をしっかりとしていきたいと思うのであるが、……。
身の回り、物が多いと面倒くさい。


身の回りに物が多くなってくると、どうしても煩わしくなってくる。それらに気を取られるからである。ともすると、逆に物に支配されたような状態にさえなってしまう。

そこで、考えられることは、物を多く持たないこと。物が少なければ、不自由もあろう。しかし、最低限の品物で生活をする工夫が、常日頃から大切。あまり道具が多くなっても、すべてを使いこなせるものではない。

とどのつまり、「吾、唯足るを知る」という概念が生じてくる。ふつう欲望は、「足るを知る」どころか「足るを知らない」ことが多い。つまり、際限がないのである。そして、「足るを知らざる」になったり、「足らざるを知らざる」になったりしてしまう。常日頃からの考え方が、大切になってくるのではないか。
できるとき精一杯のことをするだけ。


あまり面倒なことは考えない。あれこれと思案したり、画策をすることなどは、私の苦手。そこで、できるときに精一杯のできることをするだけだ。むろん、やってみると難しくて仕上がらないことが多くある。そんなときは、途中で投げ出すことになってしまう。

おそらく、計画性のないことをやっていると、他人はあざ笑うであろう。しかし、本人にとっては精一杯のことであるから仕方がない。ただ、現時点の作業を仕上げてしまおうと、ひたすら頑張っているだけである。

いきおい人生観の考え方による違いが見られてしまう。何となく、ゴキブリが台所の隅を全速力で走っているのと同じかもしれない。高い次元で見れば、何をしても知れているのであろう。コヘレットの書にあるように、何となく空しいことかもしれない。
最期までおろそかにせず、自分の体。


自分の体であるが、自分一人のものではないらしい。『孝経』に、「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢(あえ)て毀傷(きしょう)せざるは考の始めなり。」とあるのは、まったくもっともなことだと思います。

死ぬまで自分自身の体をおろそかにしないで、大事にメンテナンスすることが必要ではないでしょうか。

東条英機が絞首刑になる前日まで、歯を治療していたことは本人の偉大さを物語るのではないか。そして、古くは石田光成が刑場に引かれていくときに、水を所望したら水がないので柿が差し出された。しかし、彼は柿が痰によくないといって断った。すると、すぐに死ぬのだから、そんなことはどうでもよいのではないかと、回りにいた愚かなものが笑ったという。
一連の至福の時間、吉野家・ミスド。


晴れた日は、午前中から計画的にあちこちを歩きまわって、午後三時ごろに聖蹟桜ヶ丘まで帰ってくる。腹が減ったし、喉もかわいた。そんな日が多い。

そこで、まず食事。ふつう吉野家へ行く。経済的に、負担が軽いからである。つまり、安い。ビールを飲んでも、千円以下で足りる。しかし、並(なみ)では腹がいっぱいにならず、ちょっと物足りない。

そんなわけで、ついミスドにふらふらと入ってしまう。そして、ドーナット二つとコーヒー。これも千円以下。ブレンドコーヒーの場合、ふつうお代わりをする。しかし、アイスコーヒーが150円のときは、それを注文する。とにかく吉野家とミスドの半時間は、私にとってささやかではあるが至福のときである。
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