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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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有るものを有効にする整理・整頓。


ささいなものであっても使わなかったり、忘れられていたら意味がないだろう。自分が所有しているものをフル活用できる生活がしたいものだ。何かをしようとして、「あれはどこにしまったのかな」などと考え、わからないままに仕方なく別のものを使ったりする。

そんなために、ふだん使わないものでも、どこに何があるかを知っておく必要がある。その確認を定期的にすることが、大切だと思う。目を通すだけのやり方でもよいが、実際には棚卸しのように品物をいったん別の場所に置いて、ふたたびもとの場所に戻す方法がよい。

棚卸しをすると、不要なものが確認できる。数年も使用をしていないものは、おそらく今後も使わないかもしれない。また、簡単に購入できる品物であったならば、処分をしてしまったほうがよいのではないか。
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少しずつ引き出しの中、整理してみる。


引き出しの中には、何となく不要な物がたまってしまう。つい、差し当たり使わないものを軽い気持ちでしまう。そしてときには、そのまま忘れてしまうことがある。そんなために、ちょっとガラクタ入れのような場所になってしまいがち。

そこで、ときどき整理・点検をする必要が生じる。「百舌の速贄」ではないが、忘れてしまって必要なときに出てこないことが多いからだ。しかし、いっぺんに全部を整理することはできないので、少しずつ片付けていく。

かつて、眼鏡を額にかけておいて、それを探している同僚を見たことがある。意外にも、探していたものが身近に見つかったりする。そんなときには、自分自身の記憶がいかに頼りないものかを改めて知るのである。
久々に「バイエル」全曲、続けて聞いた。


何となくなつかしくなって、「バイエルピアノ教則本」全曲を続けて聞いた。そのソースは、私がYouTubeから一つずつ拾って「再生リスト」にしたものである。全部で小品が、百数曲ある。最初のほうは野田恵さんの演奏、そして残りはこずえちゃんの電子ピアノである。

こずえちゃんはミスタッチやエラーもあって、なかなか田村宏のようにはいかない。それでも、おけいこの雰囲気がよく出ている演奏で、私は気に入った。

それに、かなりの期間をかけて録画したらしく、髪型が変わったり、着ているものを季節に合わせている。髪を左右二つに束ねたり、そんな演奏には関係ないことにも、注意が向くので不思議である。CDやかつてのレコードのように音だけでないのが、YouTubeのありがたいところではないだろうか。
人生の考え方は、それぞれ違う。


個人の考え方は、千差万別。また、価値観なども異なる。したがって、「人生の目的」つまり「何のために生きているか?」などについては、てんでんばらばら。さらに、「そして、死んだらどうなるのか?」に関しては、まったく考えさえ持ち合わさない人が、現実にはかなりいるようだ。

そのように意見が異なるのは、もしかしたら「人生の目的」などは、最初からないのかもしれない。それは、脳のもたらした幻影であって、ただ「生きる」という本能が働いているだけなのではないのか。

野生のライオンなどは、生きている意味を考えているのだろうか。おそらく、ただ単に生きるためだけに、日々過ごしているのではないか。身体の具合が悪くなったら、彼らには病院がないので自然治癒をしないかぎり、日々衰えて死んでしまうだろう。意外に人間も、そんな単純なことかもしれない。
読み慣れた『徒然草』と『方丈記』の「死」。


『徒然草』第三十段「人の亡き跡ばかり悲しきはなし。……年月經ても、露(つゆ)忘るゝにはあらねど、去るものは日々に疎しといへる事なれば、さはいへど、その際(きは)ばかりは覺えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。……さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらむ人は哀れと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も、千年を待たで薪にくだかれ、ふるき墳(つか)はすかれて田となりぬ。その形(かた)だになくなりぬるぞ悲しき。」

『方丈記』序の後段「朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝ ならひ(習い)、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。……いはば、朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて花殘れり。殘るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花は萎みて露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。」

私は、何となくエジプト『死者の書』やチベット『バルド・トエ・ドル』を思い出すのですが、……
阿頼耶識、五感を離れ肉体離脱。


阿頼耶識(あらやしき)は仏教の言葉で、唯識説で説く八識のうち第八番目。宇宙に関するすべての展開の根源とされる心の主体を言う。無没識・蔵識・種子識などとも言われる。

五感(ごかん)は、「視」「聴」「嗅(きゅう)」「味」「触(しょく)」など五つの感覚。外界の状態の認識をする。しかし、それ以外にも第六感・第七感・第八感がある。つまり、インスピレーション、睡眠状態、そして阿頼耶識である。

「五感を研ぎすませる」などと言うが、阿頼耶識を達成すると肉体から離れて精神がどこへでも行けるらしい。つまり、思いを馳せることによって肉体離脱が可能で、過去・現在・未来を知ることができる。『正法眼蔵』ではないが、「切に思うこと、必ず遂ぐるなり」である。
現代の科学、哲学・宗教の域。


現代の科学は、物質に対して有効。反面、哲学・宗教は精神に対して有効である。ここで言う域とは、物事の程度の一定の段階を意味する。つまり、簡単に言うと範囲や限界のこと。

「プロの域に達する」などと言うが、それは専門の狭い範囲についてのことが多い。科学、哲学・宗教をともに満足させているようなことは少ない。むしろ、科学と哲学・宗教が互いに反対方向に向かって、その有効性を失ってしまう。残念なことである。

それは、二極化することが原因。例えば、人間の男と女が片方になるようなもの。男がすべて女になっても、また反対に女がすべて男になっても、人類は子孫を残せないので、やがて滅びてしまうでしょう。
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