rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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興味あり、地図上にあるまだ見ぬところ。
地図を見ていると、まだ行ったことのないところに、興味を覚える。古寺巡礼ではないが、寺院などの訪問は自分なりの想像をともなうので楽しみだ。また神社参りも、なかなか面白い。
ただ行き当たりばったりに行くのではなく、あらかじめ地図で調べておくのだ。そして、いろいろと想像をしながら訪問する。すると、まったく考えていたイメージと異なる場合もある。本堂が鉄筋コンクリートでできていたり、寺とはいうものの個人のお宅だったりすることもある。突然に行くのであるから、本尊の仏さまを拝顔できなくても仕方ない。
神社仏閣のほかにも、公園や遊園地など、その他さまざまなところがある。地図にマークされているところなら、いちおう安全であろう。市などの支所や設備であれば、休息をしたり、手洗いなども利用できる。
地図を見ていると、まだ行ったことのないところに、興味を覚える。古寺巡礼ではないが、寺院などの訪問は自分なりの想像をともなうので楽しみだ。また神社参りも、なかなか面白い。
ただ行き当たりばったりに行くのではなく、あらかじめ地図で調べておくのだ。そして、いろいろと想像をしながら訪問する。すると、まったく考えていたイメージと異なる場合もある。本堂が鉄筋コンクリートでできていたり、寺とはいうものの個人のお宅だったりすることもある。突然に行くのであるから、本尊の仏さまを拝顔できなくても仕方ない。
神社仏閣のほかにも、公園や遊園地など、その他さまざまなところがある。地図にマークされているところなら、いちおう安全であろう。市などの支所や設備であれば、休息をしたり、手洗いなども利用できる。
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ことさらに塩は食べない、健康のため。
砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。
それでも塩は、「海の精」というのを歯を磨いたり、風呂に入れたりするために買っている。そして、台所ではなく洗面場に置いてある。塩には滅菌作用もあるので、歯周病の予防にもよいらしい。
むろん、タマゴの目玉焼きや炒め物などにも、塩は使わない。マヨネーズやケチャップなど、そしてペッパーやタバスコなども一切ない。野菜などは上質の胡麻油で炒め、そのまま味わって食べる。煮物の場合も、原則として塩は不要。もっとも、塩蔵生ワカメなどは洗わずにスープとして使うので、塩分の不足にはならない。また、外食で多目の塩を摂らされているので大丈夫。
砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。
それでも塩は、「海の精」というのを歯を磨いたり、風呂に入れたりするために買っている。そして、台所ではなく洗面場に置いてある。塩には滅菌作用もあるので、歯周病の予防にもよいらしい。
むろん、タマゴの目玉焼きや炒め物などにも、塩は使わない。マヨネーズやケチャップなど、そしてペッパーやタバスコなども一切ない。野菜などは上質の胡麻油で炒め、そのまま味わって食べる。煮物の場合も、原則として塩は不要。もっとも、塩蔵生ワカメなどは洗わずにスープとして使うので、塩分の不足にはならない。また、外食で多目の塩を摂らされているので大丈夫。
甘くない汁粉、おいしくいただきぬ。
砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。
砂糖がないから、小豆(アズキ・あずき)などを煮ても甘い味付けができない。そのまま食べるのである。最初はおいしくなかったが、慣れてくると小豆その物の味がわかって、なかなか素晴らしい食べ物だ。ほのかな香りがあって、硬めに煮ると歯ごたえのある上品な味である。
コーヒー・紅茶などにも砂糖を入れない。そのようにしていたら、外でいただく喫茶店やミスドなどでも砂糖を入れなくなった。水で割って飲むと、カフォレもなかなかである。私(Kuroda Kouta)は、いつも『ヴィーグル号』(ダーウイン)だったろうか、「南海の現地人が、一日分の労働の対価として角砂糖一個で満足をした」という記述を思い出す。
砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。
砂糖がないから、小豆(アズキ・あずき)などを煮ても甘い味付けができない。そのまま食べるのである。最初はおいしくなかったが、慣れてくると小豆その物の味がわかって、なかなか素晴らしい食べ物だ。ほのかな香りがあって、硬めに煮ると歯ごたえのある上品な味である。
コーヒー・紅茶などにも砂糖を入れない。そのようにしていたら、外でいただく喫茶店やミスドなどでも砂糖を入れなくなった。水で割って飲むと、カフォレもなかなかである。私(Kuroda Kouta)は、いつも『ヴィーグル号』(ダーウイン)だったろうか、「南海の現地人が、一日分の労働の対価として角砂糖一個で満足をした」という記述を思い出す。
何にでも興味をもつと、衰えにくい。
身の回りのことなど、何にでも興味をもつことは、老化予防としての大きな効果が期待できる。興味がなくなったり、無関心になると脳は軟化をしてしまう。したがって、いつまでもフレッシュでありたいならば、身の回りのことに興味をもつことである。
なぜならば物事に興味をもつことは、心のリフレッシュになるからだ。無関心でマンネリになってしまうと、もはや生活が単調化してしまう。そして、乏しい変化の中で心身ともに衰えてしまう。
些細なことにでも、興味をもって当たるのがよいだろう。常に新しい観点で、対象を観察する。そうすると、今までにわからなかった面白いことが、次々と現われる。そのようなことに興味をもって感動をすれば、いつまでも衰えないだろう。
身の回りのことなど、何にでも興味をもつことは、老化予防としての大きな効果が期待できる。興味がなくなったり、無関心になると脳は軟化をしてしまう。したがって、いつまでもフレッシュでありたいならば、身の回りのことに興味をもつことである。
なぜならば物事に興味をもつことは、心のリフレッシュになるからだ。無関心でマンネリになってしまうと、もはや生活が単調化してしまう。そして、乏しい変化の中で心身ともに衰えてしまう。
些細なことにでも、興味をもって当たるのがよいだろう。常に新しい観点で、対象を観察する。そうすると、今までにわからなかった面白いことが、次々と現われる。そのようなことに興味をもって感動をすれば、いつまでも衰えないだろう。
「割礼」や「オシッコ」などの再生多い。
「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」などについてホームページを補完するために、このプログを利用している。そして、ことさら重要と思われる内容の記事については、タイトルとサマリをYouTubeにもアップする。私が、忘れないためだ。
すると、不思議なことがわかった。このプログでは、カウンタが全体の訪問者しか数えていないが、YouTubeでは記事ごとの訪問・再生記録がわかるからである。
そんなわけで、わかったことはタイトルの中に「割礼」とか「オシッコ」などのように「オチンチン」に関係ある記事が、他のものよりも何となく多く見られていること。「割礼をするほうがよいか?」とか「オシッコを飲んだら……?」などという話題である。
「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」などについてホームページを補完するために、このプログを利用している。そして、ことさら重要と思われる内容の記事については、タイトルとサマリをYouTubeにもアップする。私が、忘れないためだ。
すると、不思議なことがわかった。このプログでは、カウンタが全体の訪問者しか数えていないが、YouTubeでは記事ごとの訪問・再生記録がわかるからである。
そんなわけで、わかったことはタイトルの中に「割礼」とか「オシッコ」などのように「オチンチン」に関係ある記事が、他のものよりも何となく多く見られていること。「割礼をするほうがよいか?」とか「オシッコを飲んだら……?」などという話題である。
競いあうことをやめれば心やすらか。
現代社会は、一種の競争社会である。幼いころから、競争を強いられる。それに反すると、いわゆる社会の落伍者になってしまう。学歴や派閥がものを言うし、生存競争に強いものだけが得をする。
しかし、そんなことが何になるのだろうか。競争はキリがなく、ひとときの油断もできない。いっそムダなことはやめて、心が安らかなほうがよいと思う。
例えば、国家予算などもそうであろうか。思い切って、軍事費などをゼロにしてしまう。すると、ミサイルが飛んできたり、占領をされてしまうかもしれない。しかし、そんなことが国際間でそのままになってしまう国であるならば、もはや憲法や国民は無意味であろう。そのようなことを考えて、慎重に行動の決断をくださなければならないが、……。
現代社会は、一種の競争社会である。幼いころから、競争を強いられる。それに反すると、いわゆる社会の落伍者になってしまう。学歴や派閥がものを言うし、生存競争に強いものだけが得をする。
しかし、そんなことが何になるのだろうか。競争はキリがなく、ひとときの油断もできない。いっそムダなことはやめて、心が安らかなほうがよいと思う。
例えば、国家予算などもそうであろうか。思い切って、軍事費などをゼロにしてしまう。すると、ミサイルが飛んできたり、占領をされてしまうかもしれない。しかし、そんなことが国際間でそのままになってしまう国であるならば、もはや憲法や国民は無意味であろう。そのようなことを考えて、慎重に行動の決断をくださなければならないが、……。
システム(死捨無)という概念を思いつきたり。
私(Kuroda Kouta)は、三十歳代のはじめに「システム」という概念を思いついた。システムは「死捨無」を当てつけた言葉で、いわゆる英語の「System」ではない。ローマ字で書くときは、「sisutemu」となるだろう。
つまり、死捨無は「死・捨・無」の三つの内容を含む言葉だ。むろん、ここで死はいわゆる「死ぬ」こと、捨は「捨てる」こと、無はいわゆる「無」を意味する。修行する心の深さの度合いが、その順序のようになるというのだ。
なお、捨は「捨てる」ではあるが、「すて」と読まずに「しゃ」と読んでもよい。いつも思うのであるが、アッシジの聖フランチェスコや捨聖(すてひじり)と呼ばれた一遍のような生き方を少しでも模倣したいものである。
私(Kuroda Kouta)は、三十歳代のはじめに「システム」という概念を思いついた。システムは「死捨無」を当てつけた言葉で、いわゆる英語の「System」ではない。ローマ字で書くときは、「sisutemu」となるだろう。
つまり、死捨無は「死・捨・無」の三つの内容を含む言葉だ。むろん、ここで死はいわゆる「死ぬ」こと、捨は「捨てる」こと、無はいわゆる「無」を意味する。修行する心の深さの度合いが、その順序のようになるというのだ。
なお、捨は「捨てる」ではあるが、「すて」と読まずに「しゃ」と読んでもよい。いつも思うのであるが、アッシジの聖フランチェスコや捨聖(すてひじり)と呼ばれた一遍のような生き方を少しでも模倣したいものである。