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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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面白くないことばかり、記憶の中(うち)に。


なぜか楽しかったことは忘れてしまって、面白くないことばかりが思い出される。苦しかったことや恥ずかしかったこと、失敗、悔しさ、そんな記憶の断片がよみがえってきて悩まされることが多い。いったい、なぜだろうか。

そもそも自分自身の才能や英知がなかったことが原因かもしれない。つまり、何一つ満足にできなかったことも事実。仕事が順調であったこともあるが、大病に罹(かか)りアウトになってしまった。そして後に、入院・退院・通院などを繰り返すうちに、何一つ満足にできなくなってしまった。

ありがたいことに、すでに年金生活者なので、働かなくても細々と食っていける。そして日々の生活も、あまり人と会わなくなってしまった。付き合いが面倒だということと、恥をこれ以上晒(さら)したくないという入り混じった気持ちがあるからかもしれない。
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宇宙人いるかいないか、まだわからない。


私(rik)には、宇宙人やエイリアンがいるかいないかが、まだわからないのです。もしかしたら、時空の相違によっては、気付かないだけかもしれません。

物語ですが、フランスの作家・哲学者ヴォルテール(1694-1778)は、『ミクロメガス』の中に次のように書いています。
<太陽系以外の人間として、シリウス宇宙人が地球に来た。彼らは、身長が30キロメートルもあって、持参の顕微鏡でも地球人をなかなか発見できなかった。つまり、彼らにとって地球人は、バクテリア以下の存在。>

シリウス宇宙人は生命の痕跡をなかなか発見できず、やがて海上の船に気付く。そこで、船が知的生命体なのかどうかを調べるためつまみ上げ、爪の上に置いて拡大レンズで調べる。そして、ようやく地球人の船員たちはミクロメガスと対等に話ができるという次第。
新句とは、日々の記憶の断片であり。


新句(十九音)などという大げさな名を付けてみたものの、簡単に言うと「日々の記憶の断片」であって、自分自身が「生きていたという証明」。もっとも、その時点では「生きているという証明」なのである。

日々、ともすると単調になりがちな高齢期。古希を過ぎるころから、度忘れや物忘れが多くなる。もしかしたら、認知症やアルツハイマー病になりかかっているのかもしれない。そんなことも考えて、簡単な記録のような形で思いついたことを記しておく。他愛のないことであるが後になってみると、それなりに自分自身が「生きていた証明」になるのである。

新句(十九音)は、短歌でもないし俳句でもない。短歌よりも短いし、俳句よりも二文字多い。何となく言い切った俳句などと異なって、作りやすいというメリットがある。あなたも、やってみてはいかが?
健康は、温冷浴やラップリンから。


いつも健康でいるには、常日頃の注意が必要。身体は、それ自体ホメオスタシスをもっているので、その機能が完全に発揮できるようにしておきたい。

例えば、温冷浴。温かい湯と冷たい水に交互に入る。私は近くの銭湯やサウナのあるスーパー銭湯で行う。いずれにも、水風呂があるからだ。むろん、自宅でもできる。自宅には浴槽が一つあるだけで、水風呂はない。そのようなときは、水のシャワーを用いるとよい。温かい湯に5分ほど入る。そして、水風呂に1分。それを三回する。そして、最後に湯に3分ほど。すると、グルミューが回復したり、皮膚が丈夫になる。

ラップリンは、やはりホメオスタシスを大幅に改善してくれる。血液に含まれていた情報を脳にフィードバックしてくれるからである。
人体の不思議・微妙さ、つくづくと知る。


私たちの人体のことを知れば知るほど、その巧妙さ、不思議さ、微妙なバランスを保っていることのありがたさを感じる。そして、今日まで正しく動いてきたのが不思議なくらいに思える。

人体は、それ自体が一つの宇宙である。ミクロコスモスともいえる緻密さと複雑さがある。表面的に見ても見えないことが、私たちのホメオスタシスに関係している。

例えば、グルミュー。ほとんどの人は、正しく機能していない。それでも何とか生活をしている。私(rik)は温冷療法を行って、数年がかりでその機能を回復した。おそらく、そのために皮膚自体も丈夫になって、風邪をひきにくくなったのかもしれない。そんなわけで、冬でも何とか薄着で過ごすことができる。ダーウインが書いているフィゴ島の住民のように。
生食は必要なのか?健康のため。


生食とは、野菜などを生(なま)で食べることです。西式健康法では、現代においても生食の必要性を説いています。そして、私(rik)も人間が「病の器」となった原因は、柱である脊柱を梁(はり)として用いたことと、生食をしなくなったこと、つまり火食に原因があるんじゃないかと思う。

桜沢如一の書いたものにも、そのような内容があった。いずれにしても、生食を大いに試みる必要がありそうだ。

そこで、ニンジン・ピーマン・セロリなどを生でかじる。なぜかダイコンは苦いので、カブをミキサーでアロエとともにおろしにして食べる。主食は玄米で、二度炊きをする。しかし、身体の不調が続くときは生玄米を食べる。そのままでは粒が大きすぎるので、コーヒーミルで挽(ひ)いて粗い粉状にして、よく噛んで唾液と混ぜて食べる。すると、不思議なことに体調はよくなるみたい。
健康でなければ、人は罪人である。


「そもそもこの世に生を受けて、病気になるのは罪である」という。もっともなことではあるが、その意見に私(rik)はちょっと抵抗を感じる。自分の不注意でなった高血圧や糖尿病などは納得できる。しかし、母の胎内にあったときからの失調や畸形などは、自分自身の責任ではないと思う。因果応報と言われても、生前の罪状など元来ないのではないか。

桜沢如一『新食養療法』に、
<全て人は健康である。健康でなかったらそれはその人の罪である!>
と書いてある。そして、
<病人はすべて刑務所に入れ>
ともある。

いかがなものであろうか。

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