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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


老いてくると、かつて行った場所で、何となく改めて行ってみたいと思う場所がある。ノスタルジックとでもいおうか、自分なりに印象に残った思い出があるからかもしれない。
しかし、その思い出と言ってもそれほど大げさなものではなく、ほんの些細なことが多い。

長旅というほどではないが、逗留した場所やホテルや旅館の部屋に対してなつかしさもある。ちょっとしたことでも、記憶の中にはっきりと残っていることがあって、郷愁を感じるのだ。

松尾芭蕉は、死去に先立って<旅に病んで夢は枯野をかけめぐる>と詠んだらしい。もしかしたら、私も身体が不自由になって外出ができなくなったら、「夢がかけめぐる」かもしれない。

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面白くない記事を見る人は、少ない。


まったく、その通りである。
プログやホームページなどを見ていると、訪問者の多い記事は面白い。時事問題や社会の風刺、そして独自の見解など、読んでいても興味深い。また、趣味などの記事もなかなか充実していて、有意義なものが多い。

しかし、このプログのように自分が自分自身のために書いているものは、他人が見てもあまり面白くはないだろう。なぜならば、独りよがりで身勝手な内容だから。
ちょうど、売れない芸能人の芸と似ている。客観的に見ると、何となくバカバカしく哀れである。本人はがんばっていても、誰も見ないのだ。しかし、本人がそれでよければよい。と、私(rik)は思う。
つまり、「はためかない旗」や「馬耳東風以前」なのである。
何となく、やる気がなくて身体(からだ)がだるい。


ここのところ、何となく体調が悪い。数年前の入院、その後のずいぶん長かった通院。すっかり、身体(からだ)のホメオスタシスが狂ってしまったようだ。

その結果、どうやら気力まで失ってしまったみたい。
「気は心」とか、「健全な身体に、健康な精神が宿ればいいなぁ」などという諺(ことわざ)を思い出したりする。

別に死にかかっているわけでもないが、何かをするときに面倒であったり、億劫である。つまり、やる気がしないんだ。それは、もしかしたら病気ではなく、単に加齢による現象なのかもしれない。

でも、私より歳をとっている人で、矍鑠(かくしゃく)・溌剌(はつらつ)としている人もいる。もっとも、私の歳で死んでしまったり、寝たきりやアルツハイマーの人もいることはいるが、……。
ロンギヌス、血で眼の病みを癒されたのか?


ロンギヌスは、キリストの処刑のときに槍で刺したローマの兵士。すでに、眼を病んでいたらしい。しかし、キリストの血が眼に入ったので、治ったという。

そのようなことは、伝説であるかもしれない。
しかし、「ベン・ハー」や「聖衣」などのようなストーリもあるので、事実だったか創作かどうかは、一概には言えないだろう。

旧約聖書では、血液を非常に大切にするようだ。もしかしたら、こころが血液にあると考えていたのかもしれない。
現在の科学は、「こころが脳にある」と考える。しかし、かつてはこころが心臓にあると考えた時代があった。そして、実際には心臓を流れる血液が主体なのであろう。脳の場合も、血液がないと記憶できないと私は思う。

こんなもの、やめちゃえばとも思うことあり。


何かをしていて、何となく億劫になることがある。
それは、「こんなことをしていて、意味があるのだろうか?」などという疑問が生じたとき。

あまり意味のないことに、せっせと取り組んでいる自分が愚かしくも哀れになってくる。
例えば、ホームページやプログ。
誰も見てくれないとは言わないまでも、ほとんど訪問者がない。それを次々と書き足していく。何とムダなことであろう。

そんなことを言えば、自分自身の存在や人生はどうか?
あまりにも意味のないことではないか? 自己嫌悪に陥ってしまうほど、存在価値のない自分に愕然とする。
エレウシスの秘儀は、死後の疑似体験か?


ギリシア時代にアテネでは、「エレウシスの秘儀」が行われていたという。それは、エレウシス(地名)に集まって松明(たいまつ)をかざし、死後の復活を祈るのである。そして、各自が「死後の世界」つまり「死」を疑似体験する。

そのようなことが、当時は秘かに行われていたらしい。
ギリシア時代にも、やはり死後のことが心配であったことを物語っている。

私も古希になって、ぼつぼつ死ぬのであるから、死後の心配が生じてきた。でも、そのようなことを言うと誰もが笑う。死んでしまったら、何もなくなるので、そのようなことを考える必要がないらしい。
そうは言っても、用心をしておくのにこしたことはないだろう。
キリがないことを求める脳の空しさ。


現代の社会や科学は、キリのないことを際限なく追求する。同義反復のような言い方ではあるが、それが現実であろう。

つまり、基礎のないままに、次から次へと追い続ける。
それが、経済というものらしい。

ちょうど、醜女(しこめ)のお化粧のようなものである。
醜女は、容貌のみにくい女のことである。また、『古事記』では黄泉(よみ)の国にいる容貌のみにくい女の鬼のことも言っている。

醜いので、お化粧をしても見栄えがしない。さらに、風呂になど入っていないので、不潔極まりない。そんなベースの上にごてごてと盛り付けていくのが、現代の経済や文化なのではないか。
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