忍者ブログ
rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
ブログ内検索
ご案内


現在、このプログではコメントなどを受け付けていません。
お恥ずかしい個人的な内容が多いからです。それでももしも、ご意見やご質問があればここから願います。


似顔説明

[270]  [271]  [272]  [273]  [274]  [275]  [276]  [277]  [278]  [279]  [280
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

フロストは、「仕事が支え、それがオレだ」と。


『フロスト警部』#11「追いつめられた男」(1995年イギリス)をたまたま見ていたら、同性愛の若い女を刺した中年の美しい女が取調べ室で、ヒステリックにフロストに言った。

<男は得よね。老いても失うものがない。>

フロスト警部 <……>
つまり、黙っていて何も答えないのである。もしかしたら、答えられなかったのかもしれない。

別な若い女にののしられて、フロストは答える。

<仕事が支えなんだ。それがオレだ!>
PR
つきつめて言ってしまえば、脳の幻影。


ああでもない、こうでもないなどと、迷ったり考えたりする。しかし、そのような考えは、つきつめて言ってしまえば、一種の脳のもつ幻影にすぎないのではないか。「人生の目的」や「死後の世界」などについても。

つまり、その思考に振り回されてしまうのである。欲望には限りがないということ自体が不自然であるということを忘れてしまうのもそうだ。

何のために何をしているかが、わからなくなってしまった現代。
例えば、生きるために食べるのであるが、それが食べるために生きているようになってしまう。金は生きるために必要であるが、金のために生きているのではない。

本末転倒なことが、何となく常識になってしまったのは、脳がもつ幻影によるものだろうか。


グールドとバーンスタイン、協奏不調。


グレン=グールドというピアニストをご存知だろうか?
私の大好きな演奏家であるが、レコードやCDの中に鼻歌(はなうた)や掛声(かけごえ)が、ときどき入っている。それも、かなり大きなレベルで。

グールドは独特な考えをもっているようで公衆の前で演奏をしたのは、カーネギホールでバーンスタインと、ブラームス『ピアノ協奏曲 第一番』が最後。
指揮者のバーンスタインと意見が合わなかったそうで、非常に遅い語りかけるようなテンポであったという。さらに、演奏の前にバーンスタインからのアナウンスが会場の聴衆にあったりして問題になった。

その後、グールドはスタジオにこもって音楽活動を続けた。独特な生き方で、私(rik)は素晴らしいと思う。作曲もあるが、シェーンベルグの十二音階に似ている。
ちょっとしたことでもメモを残しておこう!


ほんの些細なことでも、大きな問題のきっかかりになることがある。そんなためには、メモを残しておかなければならない。いったん忘れてしまうと、二度と出てこないこともあるからだ。

メモの残し方にも、いろいろとあるだろう。
単にメモ用紙に書き残すだけ。それはそれでもよい。しかし、多くなってくると何が何だかわからなくなってしまう。

そこで、私が考えたのはこのプログに残すという方法。後で整理や分類ができるし、また検索機能をもっているので、何かと都合がよい。
タイトルを五・七・七の新句(十九音)の形にしておいて、それに十数行のコメントを付けておく。すると、モチーフばかりかある程度の手順も残しておける。そんなことを今後も続けてやってみたい。
一日に、何回も手を洗う習慣。


面倒くさがらずに、手を洗う習慣をつけよう。一日に、十数回である。
お手洗いに行くときは、できたら用を足す前に手を洗う。つまり、ばい菌の付いた手で、オチンチンやお尻を触れないようにする。

大小便が終わったときは、衣服に触れる前に手を洗う。
食事の前や食べ物に触れるときは、必ず手を洗う。とくに、料理を作るときの前には、入念に洗って水ですすぐ。

歯医者の先生を見ていると、患者一人が終わったら、必ず手を洗っている。おそらく、患者の口の中には異なった菌が多くいるからであろう。
むろん、無害な菌もいるが、おそろしく繁殖力の強い有害な菌がいるに違いない。
用心をして、口や鼻から体内に菌が入らないようにしたい。
日に増して衰えてゆく身体(からだ)哀れむ。


自分自身のことであるが、何となく哀れである。日を追うごとに、体力がなくなっていく。衰えていくというよりか、ガックリなのである。そんな自分を大いに嘆くとともに、哀れになってしまう。

足が弱くなっていることも、歴然とした事実。もしかしたら、歩けなくなってしまうのではないかというような不安感さえつのる。そして、いま現在すたすたと歩けるほうが不思議になってくる。

道で杖をついている人や車椅子の人に出会うと、何となくドキッとする。なぜならば、間もなくなるであろう自分自身の姿をそこに垣間見るからである。

年老いるということは、何とも仕方のないことなのであろうか。
身体(しんたい)の「重い」「軽い」は、感覚次第。


最近になって、体(からだ)が非常に重く感じるときがある。また、逆に軽く思うときがあったりもする。
疲れたときなどに、階段を上がる。とてもしんどい。自分なりに、別な重力の場に置かれるからだろうか。実際に、目方が重く感じるのである。宇宙飛行士が帰還後、数ステップの階段にも登れない。そこで、エレベータを設ける。宇宙を知らない人が見たら、何とも不思議な光景である。

ちょっと強い風が吹いたときに、体が飛ばされそうになったりする。風に吹かれて、よろめくほど軽い体重ではない。しかし、実際にはよろよろ~っとしてしまう。飛ばされることはないだろうが、感覚としてはリアルに感じるのである。

そんな次第で、こころの持ち方により「重い」「軽い」は異なってくるのではないだろうか。


忍者ブログ [PR]