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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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広大な宇宙を思い、慄然とする。


広大な宇宙に思いを馳せるとき、なぜか心が慄然とする。
「慄然」とは、言葉通りに「恐れおののいたり、恐怖でぞっとする」ような感覚である。また、「宇宙」とは『淮南子』(えなんじ)によれば、「宇」が天地四方で「宙」が古今往来である空間と時間の広がりだが、私は単にマクロコスモスとミクロコスモスを意味する。

つまり、すべてを含む無限の空間と時間の広がりと内面の微小な世界だ。
あまり勉強をしていないので、哲学や物理学的、そして天文学などの定義がどうなっているかはわからない。

しかし、パスカルが『パンセ』でも言っているように、それを思うだけでも心が慄然とする。それと同時になぜか私には、とくにミクロコスモスについての慄(おのの)きが増してくるのである。
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HPで知識を整理、集大成する。


ホームページを作るということは、どういうことであろうか。
私の場合は、自分自身の知識を整理する場所、そして集大成をするツールと考える。したがって、あまり立派な内容ではない。

多くの訪問客があるホームページであったら、内容が完全であらねばならないだろう。このホームページのような少しずつ仕上げていくようなやり方は、訪問してくださる人に失礼かもしれない。

むろん、見てくださってもかまわない。内容が、とくに秘密ということではない。ただ、未熟な内容で、ホームページの書式なども素人まがい。そんなために、何とかならないかとも考えている。

せめて、デザインだけでも垢抜けた格好よいものにしたいものだ。
楽しみは、知的空間広げゆくとき。


ここで、「知的空間を広げる」などと言っても、たいしたことではない。
いままでに行ったところの地図を見て、まだ行っていない新たな場所を再発見する楽しみである。前のときに、なぜか気付かなかったり、疲れて途中から戻ってしまったりした所だ。

そんな場所を地図で再確認。それが、また楽しみ。
地図は、グーグル。縮尺を変えてみたり、ときには航空写真にしたりする。航空写真は、いわゆる鳥瞰図であるから楽しい。グーグルの地図は、マウスでドラッグするとどこまでも続いている。まったく、ありがたい話である。

そんなわけで、地図を見ながら知的空間を広げることができる。些細なことかもしれないが、楽しい時間を過ごせることも事実。


降りたことない駅で下車、ささいな発見。


いままでに降りたことのない駅がたくさんある。何となくわかっているようで、知らない場所である。そんな駅で下車してみると、意外にも多くの発見があって楽しい。

あるいは、他の駅の周辺にもあったことかもしれない。似たり寄ったりということは、世間に多い。しかし、そんなときも再発見の楽しみがある。

今までに一度も来たことがないはずの場所でも、何となくそこが懐かしかったり、思い出に残っているような気がすることもある。既視感(デジャビュ)というのであろうか。

そんな体験ができるので、降りたことのない駅で下車して、その周辺を歩いてみるのも、なかなかの楽しみである。


ある日ふと、「無意味の意味」を閃(ひらめ)き悟(さと)る。


何気なく今までは、「人生の意味」などを考えたものである。そして、自分自身をその考えと比較をしたりして、焦(あせ)ったり、葛藤を生じた。つまり、一種の心のジレンマである。

そのようなことは、当然なことと言ってしまえばそれまで。おおむね「金持ちになりたい」とか「うまいものが食べたい」などと思う。そんな欲望に支配をされて生きているのが普通。

しかし、それは違うのではないか。自分自身が考えて、自分自身を駆り立てているのであって、そんなことをしてみてもキリがないだろう。

世の中には多くの「無意味」があるからこそ、「意味」の意味があるのである。それは、空気があっても自分が全部を吸うのではないことに、ちょっと似ているのではないだろうか。
歩くとき、両手に杖を持つ人もあり。


「両手に花」という言葉は聞いたことがあるが、「両手に杖」というのは知らない。しかし、ここのところ両手に杖をもって歩いている人をしばしば見かける。

おそらく、体重が足にかかるのをやわらげているのだろう。とくに、目方の重い人は、足の負担を軽くしないと痛みが激しいようだ。階段を下りるときなど、一歩ごとに苦痛を感じるらしい。

「転ばぬ先の杖」というのもある。かつては、「杖に頼ると足が弱くなるので、なるべく杖を使わないほうがよい」などと言った。しかし、最近になって杖に頼らざるをえない人が増えてきたようだ。

「スフィンクスの謎」にあるように、「老人は三本足」であるのが、洋の東西にかかわらず現実なのかもしれない。

闇雲に歩くのでなく、地図を見ておく。


駅周辺の散歩をするときは、ただ闇雲に歩くのではなく、あらかじめ地図を見ておくとよい。どこに何があるかという見当を付けておくことも、ある程度は必要なのではないか。

もっとも、まったく何も調べずに歩いてみると、思わぬ発見があったり、予期をしなかった光景を見たりする。そして、そのときのインパクトは大きい。だから、必ずしも予備知識などは必要ないのかもしれない。

あらかじめ地図で見ておくというのは、そのこと自体が最初の歩行に等しいのではないか。実際に歩くわけでないが、ある程度の擬似体験ができる。どこをどう曲がるか、どこに何があるか、そんなことが知識として得られるので、実際に行ったときに再確認をして、そこで再発見ができるのである。
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