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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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知ることのよろこびを知る、日々の幸せ。


何が何だかわからないのが、私たちの人生である。
納得をしていたことにも、裏があったりする。さらに、裏の裏。まったくわからないのが、現実である。

学問や常識も、いつくつがえされるかわからない。
とくに、人間の評価などは不安定なもの。価値観さえが大きく変転していく時代であるから、むしろそれが当然のことかもしれない。

戦前の考え方と戦後のそれを比べれば、よくわかる。よくもこれほど変るものかと、驚いてしまう。つまり、誰もがコロリと変化をしてしまうのだ。そして、「一億総懺悔」などと言ったりする。

少なくとも正しく知って、自分自身の中では納得のいくようにしたい。直感や本能もはたらかせて、自分なりの発見をする。そんなことが、日々の幸せではないか。


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たのしみは、デジカメで撮る写真の写真。


だいぶ前に、スキャナーをやめてしまった。
そこで、たいがいのものはデジカメで撮ってしまう。とくに、古い写真などがそうである。写真を写真で撮るのであるが、それでもそれなりに仕上がる。

まだデジカメのなかった時代の写真を使うために写すことが多い。むろん、ネガなども探せばあるだろう。しかし、今さらDPEなどは面倒だ。

もっとすごいのは、テレビの画面をデジカメで撮ってしまう。もっとも、そんな方法よりも精度の高い別なやり方もあるはず。しかし、メモ程度にするのであればデジカメで十分。

工夫をするとデジカメの楽しみ方は、いろいろとあって面白い。
ほんとうに便利なものができたと、つくづく思う。
たのしみは、まれに友来て語りあうとき。


橘曙覧ではないが、意外に楽しいことが日々にある。
それも、ふっと生じたり、何気なくやってくる。

つまり、花が咲いていることに気付いたり、思いがけなく友が来たりすること。
朝起きて見ると、昨日まで青かったブーゲンビレアの苞(ほう)が、急に紅くなったりしているとうれしく、楽しい一日になる。

また、友だちが久々に尋ねてくれると、楽しい会話ができる。
しかし、親しかった友だちの多くが、すでに亡くなってしまった。
でも、思い出が残っている。

花が咲いたりしても、その友を思い出すことがある。
蝋梅(ろうばい)の季節になると、大岩さんが偲(しの)ばれる。
「乱」と「猿の惑星」とを交互に見たり。


ヒストリチャンネル(255ch)とムービープラス(220ch)で、同じ時間帯に「乱」と「新・猿の惑星」をやっていた。3月14日(金曜日)である。

どちらも、前に見た映画。そこで、互いにタイムシェアリングをして見た。つまり、途中のコマーシャルがきたときに、互いにチャネルを変える。

「乱」は「リア王」であり、「猿の惑星」はいわゆる「桃太郎」である。そんな見方をしてみた。「乱」のほうはわかりやすいが、「猿の惑星」は何となく身勝手な征伐・退治的。つまり、価値観の異なるところへ出かけていって、自分の側を正当な立場として考え、相手側を恐れて殲滅しようとする。

いずれの作品も、人間の愚かさを描き出しているように思う。それぞれに、素晴らしい映画だと思う。


行くたびに、書き換えてみるプチさんページ。


晴れた日にはデジカメをもって、プチさん(プティ散策)をする。
前に行ったところでも、再発見があってうれしい。
そんなときは、気軽に写真を撮る。

すると、前回よりもベターな画像ができることがある。当然のことながら、前の写真と置き換える。そんな楽しみがある。

楽しみと言っても、ちょっと面倒なことは事実。しかし、「老化予防」の一環としては、すばらしい作業ではないか。文章を書くのは面倒であるが、デジカメで撮影するのは簡単。昔のような焦点距離やシャッター速度などのセットは不要で、ただパチリですむからである。

技術の進歩は、つくづくとありがたいことだと思う。

青空の日は、デジカメの写りがきれい!


曇った日には、何となくコントラストが悪い。
しかし、空が青く澄み切っている晴れた日には、デジカメの写りがくっきりときれいに仕上がる。なぜかわからないが、きれいに仕上がるのは何ともうれしく、我ながら満足である。

そんなわけで、晴れた日にはデジカメをもってプチさん(プティ散策)。
ブラブラと歩きながら、思いついた対象をパチリパチリ。

川の流れや木の姿。神社や仏閣。そして、変った表札。お墓などまで。
やってみると、いろいろと興味は尽きない。

帰ってから、すべての写真をハードディスクに移す。そして、そこで自分なりに編集や削除。デジカメだからこそ、そんな楽しいことができる。
下手くそな出来上がりではあるが、自分自身の思い出のためにホームページに張り付けておこう。
雨の日は、部屋にこもりて禅などをする。


雨が降ると、プチさん(プティ散策)ができない。
そこで、部屋から出ずに、私なりにテレビを見たり、禅などをする。

しかしテレビはともかく、禅などと言っても、大げさなものではない。
いろいろと考えてみる。そして、その考えを次第に広げる。さらに、広げていけば、やがて考えが「知的空間」(その奥義)に飽和する。

それで、よいのである。
つまり、考えることに飽きてしまったり、敢えてとらわれなければよい。
人間が考えるということ自体、それを考えるのは脳のもたらす誤謬だからである。と、まぁ、私はそんなことも考える。

したがって、禅などと言っても私の場合は、意味のないことをする無意味を意味づけるようなものであろう。
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