rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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それなりのバランスをとることが健康!
健康などと言っても、個人的にはかなり違った状態である。
豊富な栄養を摂っていても健康でない人もいるし、ものすごい偏食をしていても元気な人がいる。その違いには、理解に苦しむものがある。
つまり、ホメオスタシスを行っている機能や状態は、すべての人に多かれ少なかれ違いがあるようだ。幼少時からの習慣によって、自分自身の状態をどう保つかが異なってくるのだろう。
むろん、人間の身体も結果に対してフィードバックしているのだから、原因が好ましくなければ、おかしくなってしまう。つまり、その原因と結果の相関は、個人個人によって異なるように作られているのではないか。
だから、健康に関しては一概に、どうしたらどうなるとは言えないことのほうが多い。つまり、恒常性が個人個人によって、かなり異なっているからである。
健康などと言っても、個人的にはかなり違った状態である。
豊富な栄養を摂っていても健康でない人もいるし、ものすごい偏食をしていても元気な人がいる。その違いには、理解に苦しむものがある。
つまり、ホメオスタシスを行っている機能や状態は、すべての人に多かれ少なかれ違いがあるようだ。幼少時からの習慣によって、自分自身の状態をどう保つかが異なってくるのだろう。
むろん、人間の身体も結果に対してフィードバックしているのだから、原因が好ましくなければ、おかしくなってしまう。つまり、その原因と結果の相関は、個人個人によって異なるように作られているのではないか。
だから、健康に関しては一概に、どうしたらどうなるとは言えないことのほうが多い。つまり、恒常性が個人個人によって、かなり異なっているからである。
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こだわりのない日々であれ! こころ安けく。
こだわりがあると、いつの間にか神経が参ってしまって疲れる。そして、その結果、病気になりやすいことも事実。
心を安らかに保つためには、あまり物事にこだわってはいけない。
「こころ安けく」とは、私なりに「心が安らかであるために」というような意味である。しかし、文法的には間違っているかもしれない。
だいたい「安けく」なんていう活用があるのだろうか。
「きりはなこくった」という言葉がインターネット(ウェブ)で調べてもないように、独自なものかもしれない。文学作品では無責任であって許されなくても、新句(十九音)の中ではいいのである。
むろん「ら抜き」や「体言止め」なども、一向にかまわない。
こだわりがあると、いつの間にか神経が参ってしまって疲れる。そして、その結果、病気になりやすいことも事実。
心を安らかに保つためには、あまり物事にこだわってはいけない。
「こころ安けく」とは、私なりに「心が安らかであるために」というような意味である。しかし、文法的には間違っているかもしれない。
だいたい「安けく」なんていう活用があるのだろうか。
「きりはなこくった」という言葉がインターネット(ウェブ)で調べてもないように、独自なものかもしれない。文学作品では無責任であって許されなくても、新句(十九音)の中ではいいのである。
むろん「ら抜き」や「体言止め」なども、一向にかまわない。
倶会一処、本当だろうか? 信じられない。
倶会一処(くえいっしょ)という言葉がある。
仏教の言葉で、墓石などに彫られることもあるみたい。
意味は、「念仏を唱える人はすべて西方浄土に往生し、死後も一つところで出会う」という意味。つまり、「南無阿弥陀仏」と言った人は死んでも同じところに集まるのだ。
「最後の審判」や「復活」などと同じで、何とも眉唾な話。
私の考えとは異なるので理解ができない。
『青空のホームページ』の「多磨霊園(多磨墓地)」に墓石があった。また、意味は「私の仏教(サマリー)」にある。
墓にまで彫るのだから、そのように信じる人も、実際にはいるのであろう。
倶会一処(くえいっしょ)という言葉がある。
仏教の言葉で、墓石などに彫られることもあるみたい。
意味は、「念仏を唱える人はすべて西方浄土に往生し、死後も一つところで出会う」という意味。つまり、「南無阿弥陀仏」と言った人は死んでも同じところに集まるのだ。
「最後の審判」や「復活」などと同じで、何とも眉唾な話。
私の考えとは異なるので理解ができない。
『青空のホームページ』の「多磨霊園(多磨墓地)」に墓石があった。また、意味は「私の仏教(サマリー)」にある。
墓にまで彫るのだから、そのように信じる人も、実際にはいるのであろう。
一生は恥のかき捨て、未完に終わる?
残念ではあるが、完全なことなどは私にムリである。
そもそも力不足であるから、いくらがんばっても完成などはできない。
そこで、仕方なくあきらめるのである。
しかし、いろいろと考えてはみる。
完全を求めるのは、一種の病気ではないか。また、物欲・金に対する欲、さらには名誉欲なども、考えてみれば本能ではないので空しいものである。
しからば、何を求めているのか。
それは、知的な充足か?
『パパラギ』という本に、酋長ツイアビの演説として「考えるという重い病気」というタイトルがあった。
欲などというものは、すべて脳のもたらす幻影なのかもしれない。
残念ではあるが、完全なことなどは私にムリである。
そもそも力不足であるから、いくらがんばっても完成などはできない。
そこで、仕方なくあきらめるのである。
しかし、いろいろと考えてはみる。
完全を求めるのは、一種の病気ではないか。また、物欲・金に対する欲、さらには名誉欲なども、考えてみれば本能ではないので空しいものである。
しからば、何を求めているのか。
それは、知的な充足か?
『パパラギ』という本に、酋長ツイアビの演説として「考えるという重い病気」というタイトルがあった。
欲などというものは、すべて脳のもたらす幻影なのかもしれない。
人生は、恥・失敗の連続であり。
いろいろ考えてみると、今までには多くの「恥」や「失敗」があった。むしろ、「恥・失敗」の連続であると言ってよい。
中には、楽しい思い出もあることはある。しかし、無念な記憶のほうが多いのではないか。
ゲーテは、晩年になって一生を思い出し、「楽しいことは数時間もなかった」とエッカーマンに吐露(とろ)したという。かつて『ゲーテとの対話』で、読んだことがあるような気がする。しかし、うろ覚え。もしかしたら、「三分間」だったかもしれない。
とにかく、ゲーテのような偉大な芸術家・文学者でもそうであれば、自分がそうあっても畢竟(ひっきょう)仕方がないのではないか。
でも、日々何とか自分自身では、それなりの納得ゆく生き方をしたいものだ。
いろいろ考えてみると、今までには多くの「恥」や「失敗」があった。むしろ、「恥・失敗」の連続であると言ってよい。
中には、楽しい思い出もあることはある。しかし、無念な記憶のほうが多いのではないか。
ゲーテは、晩年になって一生を思い出し、「楽しいことは数時間もなかった」とエッカーマンに吐露(とろ)したという。かつて『ゲーテとの対話』で、読んだことがあるような気がする。しかし、うろ覚え。もしかしたら、「三分間」だったかもしれない。
とにかく、ゲーテのような偉大な芸術家・文学者でもそうであれば、自分がそうあっても畢竟(ひっきょう)仕方がないのではないか。
でも、日々何とか自分自身では、それなりの納得ゆく生き方をしたいものだ。
全国の「さくらがおか」を調べてみよう。
先日、世田谷美術館に行った帰りに、用賀駅から成城学園駅まで東急バスに乗った。すると、途中に「さくらがおか」というバス停があるではないか。実は、私の住んでいるところも「さくらがおか」なのである。
そんなことがあったので、桜の開花に先立って、いったい全国にどのくらい「さくらがおか」という地名があるかを調べてみようと考えた。
すると、何と113ヶ所もあった。がんばってすべてを調べたつもりだが、まだあるかもしれない。
もしも、あなたがご存知なら教えてください。
私が調べた一覧は、『青空のホームページ』「文学エクジビション」の「言葉アラカルト」にある「桜ヶ丘という地名・桜ヶ丘という駅名」にあります。
先日、世田谷美術館に行った帰りに、用賀駅から成城学園駅まで東急バスに乗った。すると、途中に「さくらがおか」というバス停があるではないか。実は、私の住んでいるところも「さくらがおか」なのである。
そんなことがあったので、桜の開花に先立って、いったい全国にどのくらい「さくらがおか」という地名があるかを調べてみようと考えた。
すると、何と113ヶ所もあった。がんばってすべてを調べたつもりだが、まだあるかもしれない。
もしも、あなたがご存知なら教えてください。
私が調べた一覧は、『青空のホームページ』「文学エクジビション」の「言葉アラカルト」にある「桜ヶ丘という地名・桜ヶ丘という駅名」にあります。
デジカメの写真を整理・分類しよう!
最初のころ、デジカメの写真はハードディスクに入れたままだった。しかし枚数が増えても、すぐ見れるアルバムにしておきたいと考えた。
いろいろな方法があるだろうが、私は次のような手順を守っている。
(1) 散歩に出かけて撮ると、100枚前後になる。場所の表示メモや後でする説明のために、看板や番地表示板などもすべて写してしまうからだ。
(2) それをいったんすべてハードディスクのワークに移す。むろん、デジカメのメモリには一枚も残さない。
(3) それらを分類・整理する。
その過程で、半分以上のネガ?が削除されて失われる。
(4) 編集をして、「プチさん(小さい散策・駅周辺再発見)シリーズ」などの本文に追加・交換をする。
最初のころ、デジカメの写真はハードディスクに入れたままだった。しかし枚数が増えても、すぐ見れるアルバムにしておきたいと考えた。
いろいろな方法があるだろうが、私は次のような手順を守っている。
(1) 散歩に出かけて撮ると、100枚前後になる。場所の表示メモや後でする説明のために、看板や番地表示板などもすべて写してしまうからだ。
(2) それをいったんすべてハードディスクのワークに移す。むろん、デジカメのメモリには一枚も残さない。
(3) それらを分類・整理する。
その過程で、半分以上のネガ?が削除されて失われる。
(4) 編集をして、「プチさん(小さい散策・駅周辺再発見)シリーズ」などの本文に追加・交換をする。