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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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簡単なメモや写真が楽しみとなる。


ちょっと思いついたことをメモ用紙に書く。
また、いつもデジカメをもっていて、気軽にパチリ。
そんなことでも、後で日々の生活の中の大きな楽しみや思い出になる。

メモがいくつか合わさって、パソコンの中でまとまった文章になる。
デジカメの写真も、いったんすべてをハードディスクに移す。そして、そこで若干の修正。例えば、たてに撮った写真を横向きにする。周りの不要な部分を除くカットやトリミングをする。そんなことをして、アルバムの写真となる。

しかし、写りが失敗をしたもの、あまり意味のないもの、使用済みの写真などはすべて削除をしてしまう。いつまでも残しておくと、後で使用をしたかしないかで、混乱をするからである。

仏教の説話にある「筏」(いかだ)の話をいつも思い出しながら。


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意味のないことを続ける意地の愚かさ。


私のホームページがその一つ。最初の仲間たちと始めるときに、つい偉そうな宣言をしてしまったことを後悔する。

今日、たまたま高瀬さんに道で会った。
彼は、パソコンなどをまったくしないが、それでも元気溌剌。頭もしっかりしている。

私は、毎日のようにパソコンで脳に刺激を与えている。しかし、それでも度忘れや勘違いが激しい今日このごろ。いくら刺激を与えても、衰えていくのは仕方ないのかもしれない。

今まで、「継続は力なり」を信奉してきた。それも、幻想なのかもしれないと思ったりもする。
「意地」というのは、ふつう「相手に対する心遣い」や「ものを欲しがる気持ち」である。そして、「意地になる」となると、「状況に逆らって、押し通そうとする気持ち」。さらに「意地を張る」のは、自分の思いを主張しようとすること。
考えてみれば、つまらないことに意地を張るのは愚かしいことらしい。

おっかなくなってやめたよ、大食いと酒。


間違ってはいけない。
大食いをやめたわけではない。また、酒も毎日飲んでいる。例えば、吉野家でも松屋でも、必ずビール。お茶を飲まないかわりに、ビンに入った500ミリリットルのもの。

それでは、上の句は何なんだ。
健康の問題から、まったくやめてしまった「大食いと酒」。
つまり、「大食い」をして「大酒を飲む」のをやめたわけ。片一方ならば、かまわないのである。

なぜかというと、加齢とともに身体のバランスが崩れてきたらしい。具体的には、インシュリンの分泌が減ったのであろうか。血液の中の血糖値がなかなか下がらないのである。つまり、食後数時間は糖尿病と同じ状態。

したがって、シェーキーズのピザ食べ放題はまだ大丈夫。そして、そのときピッチャー半分ならばよろしい。半分は、妻が助けてくれる。
うんと酒を飲むことは、体力的に無理なので、今後はないであろう。
しかし、腹いっぱい食べたいという気持ちは、まだまだなくならない。
困ったことである。
喧嘩して別れるほどの愚か者なし。


老いてくると、あまり不愉快な思い出は作りたくない。
そこで、私は喧嘩をしないようにしている。実際には、喧嘩どころか勝負事一般、競争、賭(かけ)、籤(くじ)などもしない。

将棋をするじゃないかというが、実際に相手とするわけじゃない。パソコンのゲームでする。実力を伸ばすためとか、勝つためではない。単に、老化予防のためのいわゆる脳のトレーニングである。

決められた規則の中で、いかに工夫をすることが大切であるか。そんなシミュレーションが9×9の小さな升目の中で行える。その効果までを考えると、素晴らしいことである。

そんな意味で、近代将棋よりも木村名人や益田名人、そして坂田九段の棋譜は勉強になる。囲碁・将棋チャンネルで、過去の棋譜の再現と解説をしてくれるので、何とも楽しみである。

関係のないメール来て、迷惑である。


ここのことろ、関係のないメールが多く来る。むろん、いちいち開いたりはしないが、削除をするのが面倒。ただ、ノートンをやめて新しいウイルスチェックにしてから、迷惑ホルダーに自動的に分類してくれる。

それでもバイアグラなどは、別のメールアドレスで来るらしく、何回もすり抜けてしまう。とにかく、一日に二・三百通もスパンなどが来るので煩わしい。そこで、原因になるであろうヤフーほか二つのドメインをやめた。

いかがわしい案内やビジネス、そして犯罪としか考えれないメールは煩わしい。それに巻き込まれるのを自分で避けなければならないからだ。パソコンをしないのが手っ取り早いので、10年ほどやめた期間がある。しかし、現在はそうできない事情になっている。

包丁が各家庭にあっても、誰もがそれで人を殺したりしない。また、わざわざ危険な地域の外国に旅行をしたりする人はいないだろう。なるべく、自分のほうから近づかないのにかぎる。危険なサイトや不愉快なグループは、すでにやめてしまった。


書き足していけば、次第に誤りは減る。


いっぺんに大きなものを作ろうとするのは、体力的にもムリだろう。また、飽きっぽい私にはとても気力が続かない。

そこで、少しずつ作っていく。最初は、ごく簡単なもの。そして、それを機会があるごとに、メークアップする。そんな方法に決めた。

「推敲」(すいこう)という言葉がある。
詩や文章を作るときに、字句をいろいろと考えること。このことは、老化予防に素晴らしい効果があるんじゃないか。私は、いつもそう思う。

唐の詩人、賈島が「僧推月下門」の「推」を「敲」にしようとして迷ったことによる。自分ではなかなか決めかねて、韓愈にアドバイスを受けて「敲」にしたという。

私も、ときどき元新聞社の論説委員だった高守さんにご教示を願う。
素晴らしい助言がいただけるので、感謝をしている。

朝起きて、つくづく思う、今日も生きてる!


なんとも有りがたいことである。眠りが浅くなってしまったせいか、午前2時ころに起きてしまったり、体調が少々よくないけれど、それでも生きている。そして、いろいろと楽しいことが日々尽きない。

プチさんをしたり、デパートに行ったりする。
雨が降ったら、ちょっとプチさんは無理。しかし、隣のデパートならば傘なしで行ける。何も買わなくても、それはそれでいいんだ。

プチさん(プティ散策)は、私が始めたゆっくり歩きの身近な再発見。とても楽しい時間である。歩行禅を兼ねて健康的であるし、金もあまりかからない。

デジカメをもっていって、あちこちでパチリ、パチリ。
帰ってからが大変。エキスプローラでざっと見た後で、ペイントショッププロで若干のトリミングや編集。ホームページビルダーでアルバムにする。
しかし、その作業もやってみると楽しい。生きていることの充足感が、そのようなつまらない作業の中にもある。

道元が唐で見たという「椎茸を干す老いた和尚」の話を思い出した。
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