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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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何となく、夏の疲れがそのまま残る。


外(そと)は、台風である。大型のものが、本土に上陸したようだ。
かなり風が強く、また雨もしぶいている。

今年の夏は、とくに暑かったようだ。
いま(2007年9月7日、金曜日、午前3時)、のそのそと起き出して、パソコンに向かってみた。
きょうは、南大沢の病院に行く日でもある。
この強風の中で、交通機関は大丈夫だろうか。

ここのところ、夏の疲れが残ってしまったためであろう。身体が、とてもしんどい。あるいは、現在服用をしている抗生物質のためかもしれない。

人生には、いろいろな変化がある。
何となく、いま自分自身の身体の中を台風が進んでいるような気もするが、……
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鮮やかな記憶になりて、君は残れり。


と言っても、実際の人ではない。
きのう見た映画のこと。1975年イギリス映画『バリー リンドン』、191分の大作。ライアン=オニールが演じている。
ジョージ三世の時代、アイルランド出身の成り上がり貴族の生涯。決闘で結果的には左足を失い、言葉通りではないが失脚をして、アイルランドへ母親と二人で逃げるように帰るところまでが描かれている。

妻の前の夫との子、ブリンドン卿の心の葛藤がメイン・テーマ。
アレキサンダー大王やナポレオンほどのスケールではないが、貴族社会や人間関係の中で、愚かな野心とその哀れな結末は、似たようなもの。
いったい、何をしたのか? いったい、何のための人生か?

全編にわたって「ラ・フォリア」が、通奏低音として執拗に歌う。別なチェロ曲などが少しあるが、「これでもか、これでもか」と反復する。
最後は、「美しいものも、醜いものも、今はすべてあの世」というテロップが出て終わる。
度忘れか? 名前を忘れ、困ってしまう。


老いてくると、耄碌(もうろく)をするのであろうか。
人の名前や物の名前が、なかなか思い出せないときがある。

誰かと話をしているときになど、言おうとして思い出せない。それを言おうとしているときには、イメージとしてわかるのであるが、どうしても具体的な名称が浮かばないのである。

したがって、相手には何も通じない。
まったく、困ったことである。

おそらく、脳の記憶は脳自体ではなく、そこに流れている血液が担っているのであろう。つまり、血液が劣化してくると、記憶が保持できなくなるのではないだろうか。
「生死」「取捨」「有無」など、すべて「空」の空間。


だいぶ前から、『般若心経』や『伝道の書』で言う「空」とは何かと考えている。
もうじき私も、その「空」の空間に溶け込まなければならないからである。

生の後に、死があるのではない。(と、私は思う。)
また、そこから取っても自分が増えるわけでもない。また、そこへ捨てても減らない。「取捨」は、いわば脳のもたらした幻想。
さらに、ものが有るのではない。また、無いのではない。無いというのは、単に「無い」という状態が、そこにあるだけなのだ。それは、時間の概念を考えると、何となくわかる。

そんな「システム空間」を考えてみた。そして、いままとめている。
なお、ここで言うシステムとは、「生死」「取捨」「有無」から、それぞれ一文字を取って命名をした。

「生きている証明」として、一日一句。


あなたを初めとして、親しい人々に日々のお便り。
いろいろと忙しい日々、あるいはなすべくもない日がな一日。
そんな中で、何となく自分自身を見失いがち。
そこで、一日一句。

やってみると、俳句や短歌よりも、やさしく簡単。
むろん、エッセーなどよりは手軽だし、短編小説や私小説などのような構成に関する面倒くささがまったくない。メモ日記のようなものである。

だから、ちょっとした断片でも、かまわない。
そんなわけで、少しも負担にはなりません。

あなたも、この短詞形をいかが?
吹く風は涼しくなりて、秋を感じる。


「暑い暑い」と言っていたが、急に涼しくなってきた。
ここのところ、私は抗生物質を飲んで、身体の血液を浄化しようとしているが、それでも季節感などには敏感。
限られた文字数で、日々のことがらを綴る。そうすると、たまたま次のようなこともある。

実は、テーマの新句(十九音)はもしかしたら下記の「本歌取り」か、さらに悪く言えばパクリであろうかなどと気づく。

<ふく風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり>

『金槐集』にある源実朝の作品。

いかがなものだろうか?

肉体は、皮膚一枚に包まれており。


いったい、何のことじゃ。
ここのところ、私は「空」という概念について考えている。
そして、驚くことにホーキングが『般若心経』と、とどのつまり同じことを言っているのを不思議に思う。その時間のギャップを考えてみて。

そこで、私もミクロコスモスに関して考えついた。「内管」や「外管」という概念から始めて。自分自身が、すでに細菌や化学物質に犯され始めてしまった被害意識によるのかもしれない。

自分自身を皮膚で囲まれた一つのシステム系(生死・取捨・有無の集合)と考えるときに、人間の脳がもたらす不都合や諸悪が始まるようだ。現在の人間社会である。

システム系については、他の動物や昆虫についても、調べているところだ。そんなことで、日々忙しい。

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