rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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することがない日々になり、それでも迷う。
古稀を過ぎたころから、とくに日々することがない。それでも、食事や洗濯、それから買い物などは必要。しかし、以前のように会社の経理をしたり、決算や確定申告などは必要がなくなった。最小の手続きで済むようになったのである。つまり、自分自身の身の回りの必要なことと、いまだに働いている妻の世話が残っている。そんな日々でも、いろいろなことに迷ってしまうことがある。自分の処理能力が、小さくなってしまったせいであろうか。
古稀を過ぎたころから、とくに日々することがない。それでも、食事や洗濯、それから買い物などは必要。しかし、以前のように会社の経理をしたり、決算や確定申告などは必要がなくなった。最小の手続きで済むようになったのである。つまり、自分自身の身の回りの必要なことと、いまだに働いている妻の世話が残っている。そんな日々でも、いろいろなことに迷ってしまうことがある。自分の処理能力が、小さくなってしまったせいであろうか。
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わくわくとしながら探す、新たな動画。
私はYouTube動画を見るときに、いつも思う。初めての動画であっても、かつて見た光景が含まれているのではないかと期待したりする。光景ではなくて、音楽なども同じ。いつかどこかで聞いた調べではないかと感じるときがある。ディジャビュ(既視感)のような直接的ではない懐かしさをもっている作品が、ときどきある。そんな望みと楽しみとで、初めての動画を見るのではあるが、なかなか出会えない。むろん土地などは、行った場所があるが、……。
私はYouTube動画を見るときに、いつも思う。初めての動画であっても、かつて見た光景が含まれているのではないかと期待したりする。光景ではなくて、音楽なども同じ。いつかどこかで聞いた調べではないかと感じるときがある。ディジャビュ(既視感)のような直接的ではない懐かしさをもっている作品が、ときどきある。そんな望みと楽しみとで、初めての動画を見るのではあるが、なかなか出会えない。むろん土地などは、行った場所があるが、……。
早朝に、生玄米とビールいただく。
妻の勤務の関係で、私も早朝に起きる。そして、パソコンで音楽を聞いたり、文章のインプットなどをする。すると、やはり腹がすく。そこで生玄米とビールで、軽い食事をする。生玄米は半カップ分をコーヒーミルで挽(ひ)いて作る。ときには、ゴマやシラス干しを入れる。ビールは、味噌大匙一杯分をつまみにして飲む。しかし、ビールは利尿効果が大きいので、オシッコが出るたびに、生水を飲む。この朝食が、私の健康法にもなっている。
妻の勤務の関係で、私も早朝に起きる。そして、パソコンで音楽を聞いたり、文章のインプットなどをする。すると、やはり腹がすく。そこで生玄米とビールで、軽い食事をする。生玄米は半カップ分をコーヒーミルで挽(ひ)いて作る。ときには、ゴマやシラス干しを入れる。ビールは、味噌大匙一杯分をつまみにして飲む。しかし、ビールは利尿効果が大きいので、オシッコが出るたびに、生水を飲む。この朝食が、私の健康法にもなっている。
久々に会いたる友が、「痩せましたか?」。
駅前の道で、親しい友達にあった。一年ほど会わずに居たので、久しぶりである。すると、私を見て、「痩せましたか?」と聞くではないか。確かに、一年ほど前と比べると、体重が5キログラムは減っている。つまり、だいぶ痩せたのである。自分自身では、あまり気にしていないが、体型や顔が一回り小さくなっている。すでに糖尿病が末期症状になっているので、仕方ない。少しづつ変化をするので、自分自身では気付かないのだろう。
駅前の道で、親しい友達にあった。一年ほど会わずに居たので、久しぶりである。すると、私を見て、「痩せましたか?」と聞くではないか。確かに、一年ほど前と比べると、体重が5キログラムは減っている。つまり、だいぶ痩せたのである。自分自身では、あまり気にしていないが、体型や顔が一回り小さくなっている。すでに糖尿病が末期症状になっているので、仕方ない。少しづつ変化をするので、自分自身では気付かないのだろう。
プチさんの追体験を自分自身で。
ふつう追体験というと、「誰か他人の体験を、その作品などを通してたどることによって、自分の体験としてとらえる」こと。しかし、私は自分自身が過去の体験を思い出したり、辿(たど)ったりすることによって、楽しみになるのではないかと思う。例えば、だいぶ以前に行った場所。もはや、体力が弱ってしまって、なかなか行けない。そこで、過去に自分が写した写真によって補う。また、部分的に行ってもよい。プチさんには、そんな楽しみもある。
ふつう追体験というと、「誰か他人の体験を、その作品などを通してたどることによって、自分の体験としてとらえる」こと。しかし、私は自分自身が過去の体験を思い出したり、辿(たど)ったりすることによって、楽しみになるのではないかと思う。例えば、だいぶ以前に行った場所。もはや、体力が弱ってしまって、なかなか行けない。そこで、過去に自分が写した写真によって補う。また、部分的に行ってもよい。プチさんには、そんな楽しみもある。
食うと寝る、その間(あいだ)には多少の方便(たつき)。
私の日々の生活である。食うことと寝ることがメイン。そして、その間(かん)には方便(たつき)がある。何となく「生きるために食う」のではなく「食うために生きている」というような感じ。もっとも、たつきは「生活の手段・生計」という意味があるから、食うことも寝ることも含まれるかもしれない。また、手がかり・手段・方法なども、たつきと言う。さらに、様子などを知るための手段・見当なども含まれている。古くは「手(た)付き」を意味したらしい。
私の日々の生活である。食うことと寝ることがメイン。そして、その間(かん)には方便(たつき)がある。何となく「生きるために食う」のではなく「食うために生きている」というような感じ。もっとも、たつきは「生活の手段・生計」という意味があるから、食うことも寝ることも含まれるかもしれない。また、手がかり・手段・方法なども、たつきと言う。さらに、様子などを知るための手段・見当なども含まれている。古くは「手(た)付き」を意味したらしい。
老人は、とかくモタモタ・ヨロヨロとする。
レストランの勘定をするときなど、老人はモタモタとして時間がかかる。何事も、動作が遅くなってしまったようだ。また、道を歩いているときはヨロヨロしている。杖をついている場合もあるが、すでに車椅子になってしまって家族の誰かに押してもらっている人も見受ける。何とも困ったことであるが、実は私もそれに近い。まだ車椅子になってはいないが、足がすでに萎(な)えかかっているので、早晩そうなるのではないか。
レストランの勘定をするときなど、老人はモタモタとして時間がかかる。何事も、動作が遅くなってしまったようだ。また、道を歩いているときはヨロヨロしている。杖をついている場合もあるが、すでに車椅子になってしまって家族の誰かに押してもらっている人も見受ける。何とも困ったことであるが、実は私もそれに近い。まだ車椅子になってはいないが、足がすでに萎(な)えかかっているので、早晩そうなるのではないか。