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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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木漏れ日の道を歩めば、懐かしき日々。


木漏れ日のした林道を歩いていると、ふっと懐かしい気がします。
もしかしたら本能的に、誰でもが感じる気持なのかもしれません。

しかし、私の場合は幼いころの記憶が強いようです。
実際に、そのような経験が何回かあるからです。

小学生のころは、まだ住んでたところの回りに雑木林などが残っていました。そして、近道をするときには、その中を通って行けるようになっていました。
カブトムシやクワガタを捕りに行ったこともありましたが、首つりをした人がいたりもしました。

ですから、子どものころに感じた気持が、何となくノスタルジアとして出てくるのでしょう。
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楽しみは、梅雨明け晴れて、野を歩くとき。


梅雨の間は、あまり歩けません。
とくに、林道などは湿っているので、素足にサンダルの私には苦手です。
また、蝮(まむし)などに噛まれる危険性も大きいのではないでしょうか。

そんなわけで、梅雨が明けて晴れた日がくるのが楽しみです。
山林を歩くと言っても、そこに「自由が存す」などとは思っていません。ただ、何となく雰囲気が好きだからなのです。

そして、歩くところは多摩ニュータウンに隣接して、まだ「武蔵野」の面影が濃く(こく)残っているところです。
例えば、町田市の小山田地域などです。

あなたも、行ってごらんになれば、おわかりになるでしょう。
訪問者、少ないままに続けてきたり。


誰も見てくれないホームページを作るのは、意味のないことだなどと言う人がいます。
でも、そうでしょうか?

私は、そのようなホームページでも、自分自身が自分自身に対する「生きている証明」として、とても有意義だと思うとります。
そして、子どもを育てる楽しみや、物事を完成させていく喜びが、その中にあるような気もするのです。

何も知らないままに始めたホームページですが、それでもいろいろなことが次々とわかりました。知らなかったことを理解するという喜びも、その中に多く含まれているようですね。

あなたの場合は、いかがですか?


恐(こわ)くなり、「奇想天外入門」止め(やめ)ぬ。


「神と時間と空間」というようなサブテーマで、

『奇想天外入門』というページを作ろうとしました。

しかし、なぜか恐ろしくなって先に進みません。そこで、しばらくは止める(やめる)ことにしました。

なぜならば、力不足な自分が「めくら、蛇に怖(お)じず」であったり、さらには「蟷螂(とうろう)の斧」であるような気がしてならないからです。

また、自分自身が何となく、次元の異なる対象に全力で向かっていくドン=キホーテのような感じがしないでもありません。

ちょっと、間をおいてみましょう。




この道はいつか来た道、なつかしい道。


なんとなく聞いたような言葉です。
しかし、この五七七ではいいんです。真似であっても、引用でも、さらにパクリでもかまいません。

(もっとも、著作権者との問題については、責任を取らねばなりませんが、……)

人にはデジャビュ(既視感)がありますから、誰もが同じような体験をすることもあるでしょう。

古くは『徒然草』などにも、そのようなことが書かれています。

第七十一段の後半、

<またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。>

という部分です。
あなたも、そんな経験をなさいませんか?



ルカ一章、二十八節、アナウンスなり。


「新約聖書」の『ルカによる福音書』第一章・第二十八節に神のみ前に妊娠をしたことを告げられます。日本語では、「受胎告知」とか単に「告知」として有名なくだりです。
この宗教も含めて、厳かな言葉を用いるという悪い習慣があるので、最近では単に「お告げ」となっているかもしれません。

ダビンチの絵もあって、なかなか素晴らしいシーンとは思いますが、私は別な考えをもっています。
つまり、実際に起こったことを後になって神聖化する工夫が訳された文章からも見え見えなのです。また、実際になかったことを構築する技法が何となく感じられるのです。

しかし、私は学者ではないので、いずれが真実であるかを確かめようとは思いません。ただ、自分自身の常識でわかる範囲の解釈をすればよいと思うのです。
あなたは、いかがでしょうか?

参考ながら、下記はダビンチの「The Annunciation」という絵です。

http://www.artbible.info/art/large/270.html
夏の日の河原を行けば、キリギリス鳴く。


多摩川の堤外(ていがい)を歩くのが、私は大好き。
そこは、堤防のいわゆる内側であるから、河川敷(かせんじき)。つまり、大水が出たときに河床になる部分で、砂利のままである。そして、ふつう雑草が生えている。

そこを素足にサンダルを履いて歩く。とても、気持がよい。
夏の日照りには、キリギリスが鳴いている。「ギース、チョン」という鳴き声が喧しい(かまびすしい)。
しかし、歩いていくと鳴きやむ。そして、そこを過ぎ去ると鳴くのだ。

どこにいるかなと思って、立ち止まってみることがある。しかし、なかなか見つからない。
そんなときに、ふっと思う。こんなことが、幼いときにもあったということを。それは、デジャビュ(既視感)などとは違って、実際に体験をしたことだから、とても強く懐かしい思いがする。

そんなこと、ありませんか。

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