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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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心地よさ、それが唯一、生きる目的。


あまり難しく考えることはない。
コンフォタブル、それが目的なのである。
人間の脳が発達をしてしまったために、何かと理屈づける。すべての物事には、理屈が必要であると思いこむ。

学校教育なども、そのようになる原因。

しかし、素直になって考えたらわかるであろう。
目的のないものに、目的を見つける。ないものを有ると考える。知っているものが、すべてだと考える。

人間の知恵の及ばないことなどはなく、学問で解決できないことはない、などと考えるのは非常に危険なことである。荘子なども、そのようなことを喝破している。
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確認のために、何度も同じこと言う。


それをくどいと感じる人もいるであろう。
『福音書』に、イエスがまったく同じ問いを続けてペテロに三回するくだりがある。ペテロは、とうとう「あなたは、すべてをお見通しです」という。

また、「鶏が鳴く前に三回私を知らないと言うであろう」と言われたことについても、ペテロは参って、さめざめとしてしまう。

旧約の『コヘレットの書』に書いてあることも、印象的だ。

さらに、『法華経』の陀羅尼編などは、百万陀羅(ひゃくまんだら)などと同じことを繰り返すことの揶揄(やゆ)になってしまった。

そう言えば、人間の呼吸や脈拍、それに食事や睡眠などの生活も基本的には変わりないようだ。『コヘレットの書』をモチーフにしたヘミングウエイの小説『日はまた昇る』のように。
三木さんと久々に会い、楽しい一時(いっとき)。


きょうは、仙川のロイヤルホストで三木さんと楽しい時間を過ごした。
しかし、三木さんの話の中に、ショックなことがあった。

彼の同級生が、孤独死をしたという。
その経緯(いきさつ)。

優秀な成績で卒業し、一流企業に入った。
おそらく、しっかりした素晴らしい奥さんと結婚をしただろう。

しかし、いつのまにか勝負事のために私生活が乱れ、家族が離散。その結果、最後は孤独死になったらしい。

私も、妻から見放されかかっているので、明日は我が身じゃないかと心配。でも、独自の信仰があるから何とかなるかも?

何としてでも治したい、私の持病。


「病の器」のような状態になってしまって、すでに久しくなります。
何となくグチめったいことが、

rikの「院内感染の話」

に書いてあります。
もはや、「病の器」を通り越して「病気博物館」のような様相です。

何とかして治したいと考えているのですが、体内の一部に入り込んでしまうと、なかなか治りません。
「病膏肓に入る」とは、横隔膜のあたりに入ってしまうことですが、私の場合は血液中に入られてしまったようです。

身体の一部になってしまったので、やがてガンなどと同じような結果がもたらされます。
困ったことです。

ピーナット、かじりだしたらキリがなくなる。


私は意志が弱く、また理性が少しばかり欠如しているので、食べるのを途中で止(や)めれんのです。お恥ずかしい次第。

理性でも止められないというのは、情けないことです。
たいがいのことは、何とかなるのですが、食べることに関してはどうしてもダメなんです。なぜでしょうか。

食べるという本能は、どういうことでしょう。
私は、あまり「おいしいものを食べたい」とは思いません。しかし、「腹いっぱい食べたい」という気持が、とくに強いのです。

何とかならんものでしょうか。
まだまだ、修行が足りないようです。
鰻丼(うなどん)を週に三回、至福の至り。


吉野家で、夏場の期間限定として、鰻丼をやっている。
小さいが手頃な価格、550円である。
いつも私は、ビールの中瓶(ちゅうびん、500ml)とともに注文。

乗っている鰻は、前によく行った新宿角筈の登亭と比べると半分くらいの大きさ。それが、私にはちょうどよいのである。

以前は、登亭に行く前に追分け団子で三本セットを妻とぺろり、妻三本、私三本である。それから大きな特鰻重を食べた。むろん、そのときのビールは各自大瓶。妻の分を少し私が助っ人をする。

しかし、インシュリンの分泌が少なくなったためと、老人になったために多く食べれない。そこで、吉野家の鰻丼と中瓶がちょうどいいんだ。
そして、「至福の至り」。店とともに「ご同慶の至り」でもある。
1000首ほど作ったなどと、うっかりと言う。


この間、高守さんに会ったとき、五七七を1000首ほど作ったなどと、つい口が滑って言ってしまった。しかし、実際に作ったのではなくて、1000首ほどの草案があるということなのだ。

でも、言ってしまったのは事実。「綸言(りんげん)汗の如し」は天子に言う言葉だが、取り消せないのは下々でも同じ。
しかたないので、その草案をここにテッテコテッテコと書き連ねている。
この駄作で、ちょうど173首目。6分の1くらいが、まとまったところ。
ただし、連句は1首としないて、連句の数だけあるとした。

さて、どうなることやら。
橘曙覧(たちばなのあけみ)は「独楽吟」であるが、私のは「我楽多吟」(がらくたぎん)のようで心配。
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