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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ほどほどにしておけばよい! 争いなどは。


人と人とが争うのは、生きていくために仕方のないことだったようです。
生まれる前から、つまり父親が発射をした精子のときから、激しい生き残り競争をしたことを思えば、致し方ありますまい。

しかし、そのようなことは別として、学校教育などによって不必要に競争をしいられていることもあるでしょう。それは、資本主義社会が成り立つために当然の結果なのです。

考えてみると、競争や争いはなるべくしないほうがよいのではありませんか。まして、思想の違いによって争うなど、狂気の沙汰ではないでしょういか。

戦争などは、まったくバカバカしい行動だと言った人もいました。
例えば、マハトマ=ガンジーです。

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何事も気力をもちて、行えばよし。


「精神一到何事か成らざらん」などと言います。
また、「切に思ふこと、必ず遂ぐるなり」と書かれています。

後者は、えじょうの『正法眼蔵随聞記』にある言葉ですが、必ずしもそうとは言えないのです。なぜならば、その文自体がない写本があるからです。

つまり、道元が言った言葉ではなく、書き写した人が書き加えたのかもしれません。
しかし、私の大好きな言葉なのです。

精神力についてはともかく、気力がないと何事も成就しないようです。その気力は、かなり身体のコンディションによって変わってきます。
常に、健康でありたいものです。
若き日の溌剌(はつらつ)とした気力いずこに?


若かったときに溌剌としていた気概(きがい)は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。

老いて体力に自信を失うと、多くの人は何となく消極的になってしまうようだ。
そんなことのないようにしたいと私は思っているのだが、どうしてもそうなっちゃう。

まず、健康状態を維持することを実現しなければならない。
何とかして、病持ち(やまいもち)を改善したい。

以前よりは、だいぶよくなってはいるが、……
空しかる気持を満たす五七七なり。


人生も終盤に近くなると、何となく心が空しくなってきます。
すでに済んでしまった半生(はんせい)以上の期間に対して、悔いと無念さが残っているからです。

しかし、そうかと言って今さら挽回はできません。
すでに、体力がなくなっているからです。
そんな日々に、じっと過ぎてしまった半生の反省をして、残る日々を大切にしたいものです。
そのために、この五七七に託して気持を整理しておくことがよいでしょう。

なぜならば、五七七は簡単で、誰でも素直に心を写すことができるからです。嘘だと思ったら、やってご覧なさい。
玄米を食べて、大きな大便を出す。


玄米を食べると、驚くほどカサのあるウンコがでます。
そのウンコの色は、黄金色。おそらく、玄米は善玉の腸内細菌叢に好ましいのでしょう。
なぜならば、玄米は古くから人間が食していたものだからです。
便のカサが増えるのは、私たちのウンコの他にも腸内細菌叢が出したウンコも含まれているからでしょう。

薬の代用にするには、生玄米もよろしい。
20分の1カップくらいをコーヒーミルで碾(ひ)いて、そのままスプーンで取って食べます。

ただ、玄米を食べるときには、農薬を使っていないカルガモ米などを用いてください。
農薬は、胚芽に濃縮されて残っているからです。そしてまた、玄米は胚芽を残すように精米されるからです。



ニワトリが、フライドチキンになる工程。


私は、このことを考えると、心が慄然(りつぜん)とします。
なぜならば、自分自身がニワトリと似た立場に置かれていると感じるのです。さらにもしかしたら、日本人全体が何者かに飼われているような立場にあるのではないかという懸念さえあるからです。

話を飛躍させずに、戻しましょう。
倉田百三(くらたひゃくぞう)『出家とその弟子』に、鶏を捌(さば)こうとしていると、突然自分が入れ替わって鶏になっているという恐ろしい話があります。

また、中国の説話で同じような内容が、魚の場合であります。

私も、「食用がえる」の中で、そんなテーマを試みてみたんですが、……
本当の友達増えず、次々と減る。


本当の意味の友達は、なかなかできないようです。
とくに、高齢になると互いに考え方が異なるからです。

また、「次々と減る」ということは、喧嘩をしたりして減るのではありません。死んでしまったり、寝たきりになっちゃたり、ひどいのはアルツハイマー病になってしまうからです。

そんな意味で、高齢になると「本当の友達」というのは少ないのでしょう。ゲーテでさえ、晩年は「二・三人であった。」と言い残しています。
エッケルマンは、その意味では友達ではなかったのかもしれません。

私は、自分を含めて「人間のバカさ加減は言い尽くせない」のではないかとも思っています。なぜならば、自分の中に自分という分身の友達を発見したからです。
ちょっと意味がわかりにくいかも?

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