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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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消毒をした地下水を日々飲む悪習。


消毒をした地下水を飲むようになってから久しい。つまり、ビールの大瓶である。5パーセントであるから、水に等しいようなものだが、アルコールであることは事実。

水でもよいのだが、やはりビールのほうがうまい。そんなわけで、20本入りのケースを一週間で開けてしまう。

いまのところ何ともないが、やがて肝臓をダメにしてしまうのではないだろうか。いくら水分の代わりだと言っても、一日に大瓶三本は多いのではないかとも思う。
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くれくれと何かをすると、時間が過ぎる。


くれくれと何かに熱中していると、時間が過ぎるのが早い。よく経験をするパターンである。いやいやにすることとは、ずいぶん違う。

元来、健康で心配のないときは、そういうことが多い。しかし、加齢によって身体が思うように動かなかったりして、なかなか熱中できなくなってしまう。

古稀を超えたころから、私もそうなってしまった。しかし、ときどき何かに熱中することがある。そういうときは、時間が早く過ぎるような感じがする。時間とは、いったい何であろうか?

いたたまれなくなることもあり、過去の追憶。


何かをしていて、過去を思い出すことがある。しかし、その内容である。楽しかった思い出ならよいが、たいがい不愉快だったり、いたたまれないような内容。どうしてだろうか?

そもそも、記憶とは何であろうか? おそらく脳の一部に貯えられた情報であろう。何のために貯えたかというと、再び同じようなパターンに遭遇したときに、経験として利用をするためではないか。

いたたまれなくなるような内容の情報は、自分自身に危険が迫ったときの警告であるのだろうか? 気分的には好ましくないかもしれないが、それは大切な情報なのかもしれない。
何事も面倒になる疲れた身体(からだ)。


慢性的な疲れが生じると、何事をするのも面倒になる。つまり、億劫になるのである。体力がなくなってくると、気力まで失うのであろうか。

若いころには、なかった現象である。還暦を過ぎて、さらに古稀を迎えたころから、そんなことが目立ってきた。もしかしたら、何らかの病気かもしれない。

考えられることは、血液中に異物が入ってしまったこと。エイズや肝炎ほどの悪質なものではないらしいが、歯周菌や緑膿菌などの異物が増えてしまったのかもしれない。そして、血糖値が高いのも不都合なことかもしれない。加齢によって、いろいろと今までの不摂生が表面化してきたのであろう。
倒れたら、もうダメ、終わり、現代医療。


いったん倒れたら、もはやダメになってしまう場合が多い。しかし、現代の医療システムでは、到れりつくせりで応急処置をしてくれる。

例えば、死んでしまったほうがよい場合でも、生命の維持をしてくれる。そして、その結果ずいぶんと長い期間を生き延びるのである。むろん、ふつうの生活はできないから、寝たきりの不自由な状態になる。

つまり、生きながら死んだ状態なのである。なぜならば、自分自身の意思では何もできない。ただ、命が持ちこたえているというだけである。その結果、費用がかかる反面、人としての意味がなくなってしまう。寝たきりでは、何もできないのである。現代の医療には、そのような矛盾を多く含んでいるようだ。
宗教や医療機関に、関係しない。


私の知人に、「できるだけ宗教や医療機関には関係しない」という人がいる。無宗教で、多くの人から誘われるが、一切断ってしまう。本人は、「信仰をすると煩わしい人間関係の問題が多い」と思っているようだ。

それでは、「医療機関に関係しない」ということは、どういうことであろうか。それは、健康診断などを受けると、多くの問題が発覚して、病人になってしまうということらしい。そして、薬の多用によって身体のホメオスタシスを失調してしまい、間もなく廃人になることを心配しているらしい。

いずれにしても、自分自身で考えた自分一人の信仰でよいし、健康も自分自身の責任で保持していけばよいと言う。素晴らしい話ではあるが、意思の弱い私にはとてもできないことである。
考え方に違いあり、政治・宗教。


政治や宗教の内部には、いろいろと考え方に相違があるようだ。そして、その相違によって内部分裂が生じる。

同じ日蓮宗を信奉する組織同士でも、意見の違いがあったりして、骨肉の争いを続ける。おそらく、過去にカソリックとプロテスタントの間にも、大きな争いがあったのではないだろうか。

つまり、私は考える。政治や宗教などは人の集まりだから、内部で意見が異なるのは当然。最初は互いにうまくやっていても、やがて意見の相違が出てきて問題が生じる。そんなことならば、最初から独りですればよい。そんなことを考えるのだが、どうであろうか。
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