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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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孤独死にならないために、日々注意する。


孤独死というのがある。誰にも看取られないままに、死んでしまうらしい。何とも哀れな話ではあるが、最近になって結構多いという。

身体(からだ)が弱って、起き上がれなくなり、そのままアウトになることがある。つまり、身近な人を呼べないままに、しばらくして息を引き取るのである。

もっと悪いのは、頭がおかしくなってしまうこと。糖尿病と闘っている人や、血液が悪くなっている人。何としてでも、脳への直撃を避けなければならない。脳は脂肪でできているらしい。食べるプラスチックと言われるマーガリンなども、控えたほうがよい。また、ブルガリアヨーグルトとかカスピ海ヨーグルトなども、品質を確かめてから食べる方がよいでしょう。製品名が同じで、内容や成分がまったく異なる場合があるからです。
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ガクガクと身体(からだ)衰え、イルヘルスなり。


どうやら、イルヘルスになってしまったらしい。まだ寝たきりではないが、軽い半病人である。体調の衰えが激しく、あまり無理ができない。外出なども、遠くへ行けなくなってしまった。

それでは病院に通って、完治すればよいと思うかもしれない。しかし、通ってみても治らないばかりか、ますます悪化をしてしまった。そこで、自分の責任でイルヘルス状態のまま日々を過ごすのである。

つまり、何とか病気のままに健康に生きるのである。五年前まで診ていただいたいわゆる掛かり付け医の先生は、二年後に失明して、さらに三年後には透析か足の切断をしているとおっしゃった。しかし、私はいまだに両足も付いているし、毎日吉野家に行って、旨辛ライスとサントリーモルツを飲んでいる。イルヘルスの生き方があるんじゃないかと思う。
こんなこと、していていいのかという不安!


私も、とうとう古稀を過ぎてしまった。そして、今まで通り日々だらだらと生きている。あまり先が長くないことは、実感としてわかる。なぜならば、親しい友達が次々とグッドバイをしているから。

そうかと言っても、それでは何をすればよいのだろうか。才能があれば、それを伸ばしていけばよい。しかし、残念なことに何の才能があるかわからない。わからないと言うよりも、何もないんじゃないかと思う。

そんなわけで、人生の終盤になっても、落ち着かない。気持ちが休まらないのである。そして、何となく自分の人生は失敗であったような気がしてきた。何となくというのは、ちょっと残念ではあるが、……。
FBのホームは市街、ページは自室。


Facebookでは、友達すべての記事が流れてくる。しかし、友達になっても互いに情報の交換をしない人もいる。だから、ホームを見ていても関係のないことが次々とアップされている。

そんなわけだからホームへ行くと知らない人もいて、何となく市街地を歩いているみたい。しかし、プロフィールさらにはFacebookページにすると、他人から見た場合、部屋を訪問した感じになる。つまり、こちら側から見たら自分の部屋になるのだ。

我が家というか、わが部屋というか、いずれにしても一つの空間である。だから、ホームにアップするよりか、具体的な内容をメモとして記述できるわけである。
結局は、知りたいことも分からずじまい。


パソコンをやっていると、わからないことが多い。例えば、Facebookページの中で動画を動かす方法。GIF画像を貼り付ければ、それでよいようにも考えられる。しかし、今までに見たことがない。

YouTubeなどを利用して、動画を見ることは簡単にできる。しかし、ちょっとしたスライドショーを自作したい。いずれにしても、その作品を読み込んで実行するのであるから簡単ではないかと思う。しかし、それがTabSiteの範囲で可能かどうかを知りたいのである。

なぜならば、もしかしたら本体までダメにしてしまう危険性が大きい。そこで、いろいろなところに質問をするのであるが、めったに回答が帰ってこない。そして、そのままになってしまうことが多い。
「もうダメだ」などと言っては、決していけない。


なぜならば、そのようなことを言うと、それが自己暗示になってしまうからだ。したがって、本当はそれを考えるだけでもダメ。

不思議なもので、私たちは非常に危ない日々を平気で過ごしている。考えてみれば、千尋(せんじん)の谷に架かっている吊り橋の上を平気で歩いているようなもの。もっとも、その状態を自分が知らないだけ。

もしも、自分自身のしていることを認識したら、足がすくんで歩けなくなってしまうだろう。運動場に白線で書いた幅30センチメートルくらいだと何でもない。つまり、実際の幅ではなく精神的に感じる幅なのである。そのように意識するかしないかで、次の事態が異なってくることが多い。
久々に大豆を炒って、食べてみようか?


豆類は、健康によいという。そんな案配で、大豆や小豆を買って置いて、ご飯を炊(た)くときに入れたりする。

小豆は、月に三回くらい。そして、大豆は十回くらい。それなりに、おいしいご飯がいただける。

しかし、大豆の場合は炒(い)って食べてもよい。あたかも、豆まきのときの大豆に似ていて、とてもおいしい。豆まきのような乾燥をした状態にならないが、それでも香りがあって、よい味がする。炒る(いる)のは、小型のフライパンで弱火の状態、かなりの時間をかける。待つ時間も、楽しみである。
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