rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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行動の範囲広がる、バスの利用で。
シルバーパスを取得してから、かなりバスを利用するようになった。そして、行動範囲が大幅に広がったことに気付いた。なぜならば、足の不調がカバーできるからである。
昨年から膝に問題があって、長距離を歩くと痛くなってしまう。そこで、バスに乗って目的地のそばまで行くことにした。帰りも最寄のバス停から戻ってくる。そんなことをすると歩く距離が少なくなって、足の負担を減らしてくれる。
バスを利用した小旅行と言ってもよいが、むしろプチさん(プティ散策)の延長と考えたほうがよいかもしれない。高齢者が足に負担をかけないで、気軽に移動することができるシルバーパスは、素晴らしいシステムである。
シルバーパスを取得してから、かなりバスを利用するようになった。そして、行動範囲が大幅に広がったことに気付いた。なぜならば、足の不調がカバーできるからである。
昨年から膝に問題があって、長距離を歩くと痛くなってしまう。そこで、バスに乗って目的地のそばまで行くことにした。帰りも最寄のバス停から戻ってくる。そんなことをすると歩く距離が少なくなって、足の負担を減らしてくれる。
バスを利用した小旅行と言ってもよいが、むしろプチさん(プティ散策)の延長と考えたほうがよいかもしれない。高齢者が足に負担をかけないで、気軽に移動することができるシルバーパスは、素晴らしいシステムである。
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ことさらに何もなさずに日々過ぎていく。
『一言芳談』に、「何もしないで、寝ているのは悪いでしょうか?」というような質問があって、「何もしないのは、それなりによい」というような答えがあったと思う。
『一言芳談』(いちごんほうだん)は、鎌倉時代の法語集であるが作者未詳。法然など浄土宗高僧の格言・短文を集めたものである。さらに、そこからの孫引きが『徒然草』にもある。
私は、とくに何もしないで歳をとってしまった。むろん、会社に勤めていたころは、それなりの仕事をしていたわけではあるが、とくに言うほどのことをしてはいない。つまり、あまり社会的に有意義な業績を残さず、一生を終えてしまうパターンの人間なのである。そんなことが、最近になってわかった。
『一言芳談』に、「何もしないで、寝ているのは悪いでしょうか?」というような質問があって、「何もしないのは、それなりによい」というような答えがあったと思う。
『一言芳談』(いちごんほうだん)は、鎌倉時代の法語集であるが作者未詳。法然など浄土宗高僧の格言・短文を集めたものである。さらに、そこからの孫引きが『徒然草』にもある。
私は、とくに何もしないで歳をとってしまった。むろん、会社に勤めていたころは、それなりの仕事をしていたわけではあるが、とくに言うほどのことをしてはいない。つまり、あまり社会的に有意義な業績を残さず、一生を終えてしまうパターンの人間なのである。そんなことが、最近になってわかった。
たどりつく妙なり、いまだ来ていない場所。
かつて一度も来ていない場所で、神社仏閣などをさがす。そのとき、何となくこちらのほうではないかという感じがすることがあって、そこを進んでいく。驚くことに、その突き当たりなどに、さがしていた場所があるではないか。
不思議なことではあるが、誰かに導かれていて、たどり着いたような感じだ。単に、勘がよいというような問題ではない。
そんなことは、日常の生活でもたまにある。「そうなるな」と思っていると、そうなったりする場合である。『正法眼蔵』に、「切に思うこと、必ず遂ぐるなり」と書かれた異本もあるが、「思いが通じる」などということが現実の生活の中にあるのだろうか。
かつて一度も来ていない場所で、神社仏閣などをさがす。そのとき、何となくこちらのほうではないかという感じがすることがあって、そこを進んでいく。驚くことに、その突き当たりなどに、さがしていた場所があるではないか。
不思議なことではあるが、誰かに導かれていて、たどり着いたような感じだ。単に、勘がよいというような問題ではない。
そんなことは、日常の生活でもたまにある。「そうなるな」と思っていると、そうなったりする場合である。『正法眼蔵』に、「切に思うこと、必ず遂ぐるなり」と書かれた異本もあるが、「思いが通じる」などということが現実の生活の中にあるのだろうか。
少しずつ仕上げていこう、プチさんの記事。
ここのところプチさん(プティ散策)を続けているのだが、いっぺんに多くのところには行けない。なぜならば途中で疲れてしまったり、足が痛くなったりする。そんなときは大事をとって、中止して後日に持ち越す。
そこで、改めて地図を見ながら調べ、少しずつ記述漏れや行っていない場所の追加をする。やがて少しずつではあるが、何とか自分自身でも満足できる内容になってくる。
何回か同じ場所に行くと、飽きてしまうという人もいる。しかし同じ対象でも、私は新しい観点や視野で見られるので、飽きるどころか改めて興味が湧く。そんな次第で、私は少しずつプチさんの記事を仕上げていく。そして、それが私にとって「生きている証明」にもなるのだ。そんなわけで、いっぺんに完成をしなくてもよい。
ここのところプチさん(プティ散策)を続けているのだが、いっぺんに多くのところには行けない。なぜならば途中で疲れてしまったり、足が痛くなったりする。そんなときは大事をとって、中止して後日に持ち越す。
そこで、改めて地図を見ながら調べ、少しずつ記述漏れや行っていない場所の追加をする。やがて少しずつではあるが、何とか自分自身でも満足できる内容になってくる。
何回か同じ場所に行くと、飽きてしまうという人もいる。しかし同じ対象でも、私は新しい観点や視野で見られるので、飽きるどころか改めて興味が湧く。そんな次第で、私は少しずつプチさんの記事を仕上げていく。そして、それが私にとって「生きている証明」にもなるのだ。そんなわけで、いっぺんに完成をしなくてもよい。
恥ずかしい思い出ばかり甦(よみがえ)り来る。
なぜだろうか? 楽しかったときの記憶や得意になったことがらを思い出すことは少なく、むしろ恥ずかしかったことや失敗をした事件などの記憶が次々と思い出として甦ってくる。そして、今考えてみてつくづくと自分自身の愚かさを思い知らされ、何となく苛(さいな)まれる感じである。
だから私にとって、思い出はあまり楽しいものではない。すなわち、すべての思い出が楽しくないのではなく、思い出される思い出が楽しくないのである。
もしかしたら、今後もそのような後悔の連続なのかもしれない。そんなことを考えると自分自身の記憶そのものに愛想がつきてしまう。大声で、「わっ」と叫びたくなるような衝動に突然かられることさえあるので、何とかしなければならない。
なぜだろうか? 楽しかったときの記憶や得意になったことがらを思い出すことは少なく、むしろ恥ずかしかったことや失敗をした事件などの記憶が次々と思い出として甦ってくる。そして、今考えてみてつくづくと自分自身の愚かさを思い知らされ、何となく苛(さいな)まれる感じである。
だから私にとって、思い出はあまり楽しいものではない。すなわち、すべての思い出が楽しくないのではなく、思い出される思い出が楽しくないのである。
もしかしたら、今後もそのような後悔の連続なのかもしれない。そんなことを考えると自分自身の記憶そのものに愛想がつきてしまう。大声で、「わっ」と叫びたくなるような衝動に突然かられることさえあるので、何とかしなければならない。
宝くじ、当たった故に殺された人。
二億円が当たって、その後しばらくして行方不明になった女の人がいた。警察が調べたところ、○○の勧誘員に殺されていたという。いったい、その人の人生は何であったのか。
そんなことなら、宝くじなどに当たらなかったほうがよかった。おそらく、本人は考えてもいなかった結果であろう。
うれしくなって、多くの人に吹聴をしたらしい。その相手の中に悪い人がいたのだ。二億円を奪うために殺したほうも、愚かであったかもしれない。計画性もないままに、殺してしまい、死体を山林に捨てたという。そんなわけだから、すぐに逮捕されたらしい。後で考えると、二億円が二人の不幸な人間を作ったことになる。いったい、その女の人にとって宝くじは何だったのであろうか。
二億円が当たって、その後しばらくして行方不明になった女の人がいた。警察が調べたところ、○○の勧誘員に殺されていたという。いったい、その人の人生は何であったのか。
そんなことなら、宝くじなどに当たらなかったほうがよかった。おそらく、本人は考えてもいなかった結果であろう。
うれしくなって、多くの人に吹聴をしたらしい。その相手の中に悪い人がいたのだ。二億円を奪うために殺したほうも、愚かであったかもしれない。計画性もないままに、殺してしまい、死体を山林に捨てたという。そんなわけだから、すぐに逮捕されたらしい。後で考えると、二億円が二人の不幸な人間を作ったことになる。いったい、その女の人にとって宝くじは何だったのであろうか。
だらだらと続けるうちに、面倒になる。
何でもそうだと思うが、最初は張り切ってする。しかし、やがてだらだらとしてしまう。さらに、続くと面倒になってしまう。飽きてしまうためだろうか。
面倒になったら、やめればいいじゃないかと言う人がいる。しかし、なかなかやめられない。そして、マンネリのごとくだらだらと続ける。
考えてみれば、人生の問題は連続の場合であることが多い。一日の食事・睡眠・排便などもそう。また、心臓の動きや肺の呼吸なども単純な繰り返しだ。それらは、飽きたりしない。つまり、心臓が鼓動をするのがいやになったり、私たちが飯を食うのが面倒になったりしない。だから、日記などが面倒になるということは、かなり精神的な我が儘なのかもしれない。
何でもそうだと思うが、最初は張り切ってする。しかし、やがてだらだらとしてしまう。さらに、続くと面倒になってしまう。飽きてしまうためだろうか。
面倒になったら、やめればいいじゃないかと言う人がいる。しかし、なかなかやめられない。そして、マンネリのごとくだらだらと続ける。
考えてみれば、人生の問題は連続の場合であることが多い。一日の食事・睡眠・排便などもそう。また、心臓の動きや肺の呼吸なども単純な繰り返しだ。それらは、飽きたりしない。つまり、心臓が鼓動をするのがいやになったり、私たちが飯を食うのが面倒になったりしない。だから、日記などが面倒になるということは、かなり精神的な我が儘なのかもしれない。