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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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退院後、体の失調、しやすくなった。


数年前に入院をして、手術を受けた。その箇所は、何とか治ったものの体が失調をしやすい状態になってしまった。院内感染とでもいうのだろうか、菌に対する抵抗力が弱くなくなってしまったようだ。

外科手術が素晴らしい技術であることはわかる。そのことについては、何ともありがたいことだ。しかし、退院後しばらくしてから、すっかり体の調子が悪くなってしまった。つまり、ホメオスタシスが以前のようには働かないのである。そして、少しずつガタガタになって、とうとう二年ほどで何となく廃人のようになってしまったみたい。

以前はそんなことはなかったが、すぐに風邪を引くようになった。そして、なかなか治らない。何となくイルヘルスの状態が続くようになってしまった。体内に緑膿菌などが入って、腸内細菌の状態が大きく変わってしまったのかもしれない。大腸ガンにもなりやすい。早めに、何とかしなければいけない。
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楽しみは、行きたいところ地図で確認。


行きたいところをあらかじめ地図上で確認する。それが、また楽しみの一つ。グーグルの地図でも、ヤフーの地図でもよい。それぞれにメリット・デメリットはあるが、ふつう私はグーグルを利用する。

航空写真モードにすると、いわゆる鳥瞰図になる。地形などがはっきりして、いつまでやっても飽きない。また、グーグルでは点を次々プロットしていくと、距離が求められる。倍率も簡単に変更できるし、ストリートビューまで見ることができる。

そんなわけで、行こうとしているところの地図を見ておく。それだけで、かなり予備知識が得られる。そんなために、現地に行ったときのことが大いに楽しみである。あらかじめ地形を知っておくと、迷ったりしないので、とても楽しいプチさん(プティ散策)が実現できる。
「人生に疲れた」とでも、言うのだろうか?


「人生に疲れた」感覚などと言うと、大げさかもしれない。しかし、ここのところ何となく、何をするのも面倒なのだ。食事をするのさえ、億劫なことがある。

いったい、どうしたことだろうか。とくに、健康を大きく損なったわけではない。しかし、致命的でないがかなり調子がわるい。もしかしたら、自律神経が失調しているのかもしれない。つまり、気力の問題なのだろう。何をするのも鬱陶しく、やる気がしないことが多い。とくに雨が降り、部屋に閉じ込められている日などに、その傾向がある。

疲労困憊(ひろうこんぱい)という言葉。しかし、それは体力が消耗した場合に言われることで、何もしないのに疲れてしまうのは、何とも不思議である。そんなわけで気分転換をして、疲憊(ひはい)しないようにしたい。
ガクガクッと、いっぺんに来る老いの症状!


少しずつ老いていくのだとばかり思っていた。しかし、私の場合はそうでなく、いっぺんに老いがやってきた。自分自身でも驚くほどである。

これまでは何となくホメオスタシスを保っていた身体(からだ)が、失調をしてしまったのである。その結果、次のような症状が表面化してきた。

(1) 体温の保持……室温20度でも、電気ストーブが必要
(2) 消化の異常……便秘になりがち
(3) 尿糖が出始めた……常時500(++)程度
(4) 血圧が高くなる……上が200前後、下が100前後
(5) 外出や歩行が困難になる……せいぜい20分以下
今までは、すべてをクリアしていたのだが、何とも困ったことである。さらに、「皮膚におできができたり、低温火傷の傷口がなおらない」「歩行時にヨロヨロする」「眠りが浅い」など。無病息災やせいぜい一病息災というのはあるが、多病息災などというのは、いったいあるだろうか。
FBも、何がなんだかわからないまま。


FB(フェイスブック=Facebook)を始めたのは、昨年(2010年)12月18日、そしてFacebookページを始めたのは今年になった2月4日。わからないことばかりで、なかなか進まなかった。そして、今も多くのことがわからないまま。

なぜ、「FBも」などと言うのか? それは、何がなんだかわからないのは、煎じ詰めれば「自分自身の人生自体も」、そうであるからだ。

わからないままに進めてきたわけであるが、それでも何とか形をなしている。しかし、Facebookページのトップページ用に「カスタムページ」を作ろうとすると、もうダメ。そこまでで知識の限界となる。さらに、調べていけばよいのではあるが、それに深入りするほどの根気と時間がもはやない。若いころならば話は別だが、古希を過ぎた老人が細部までを調べていくのは労が多いわりには、効果が少ない。そんなために、ほどほどにせざるをえないのである。


できること、できないことをはっきり知ろう!


若いころは、自分の可能性が無限に近くあるんじゃないかなどと考えていた。しかし、古希(七十歳)を過ぎたころから、考えが少し変わった。つまり、ほとんどのことができないのであって、できることなど少ないということがわかってきたのである。

むろん、その気になってすれば、可能なことは多いだろう。しかし、なかなかその気になれないのである。若いころのように、必要に迫られないからかもしれない。例えば、おっかない編集者がいて、原稿の締め切り日を何回も確認してきたりしない。いきおい、自分自身の気分によって作業を進める。そして仮に仕上がったとしても、とくに見る人もいない。

そんなために、ほとんどのことが「できない」ことになってしまう。イラスト一枚を描(か)くにしても、ピアノソナタを作曲するにしても、あるいは短編小説や長編小説にしても、その作業に入らなければ、できるはずがない。
無駄と無為、無意味の多い私の一生。


私の一生といっても、まだ終わったわけではない。しかし、今までのことを考えると、何ともやりきれない気持ちになってしまう。ムダとムイがあまりにも多く、ほとんどがムイミなことであったからだ。つまり、満足なことは何一つできなかった。つくづく後悔をするというか、まことに慙愧に耐えない。

おそらく、そんな状態で終わってしまうのだろう。しかし、健康については大いに勉強をした。それも泥縄式で、自分自身の必要にせまられてやったこと。高血圧症になったり、糖尿病にかかったからである。そして、何とかして逃れたいために、かなりの勉強をした。

その結果、それらの症状は何とか治った次第。努力と言っても、そんな程度である。考えてみれば、そもそも人生がムダであったのかもしれない。
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