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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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諦(あきら)めて一日一回、ラップリンする。


「オシッコは、おいしくないが清潔なもの」ということは、理論上、また確かめてみてわかっている。しかし、どうも気が進まない。とうとう諦めて、一日に一回だけはするようになった。

なぜならば、ガンの予防法になるのではないかということを確かめるためだ。もっとも、その他すべての肉体的コンディッションに対して有効であるらしい。つまり、万病の治癒とその予防方法である。ホメオスタシスに対して、有効な情報をフィードバックするのであるから、当然なことであろう。

一日に何回もする人がいるらしいが、私は起床時に一回だけする。それも、小匙(こさじ)半分ぐらいを啜(すす)るだけ。オーディオ・アンプリファイヤーのことを考えると、負帰還の分量が多いと逆に歪(ひず)んでしまったり、発散(発振)をしてしまうからである。
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信仰は激しきものか、マリア観音。


「マリア観音」は、観音さまのようでもあり、マリアさまのようなお姿でもある。かつてキリスト教が禁じられていた時代に、秘かに信仰の対象として作られたものだ。「邪宗門」として幕府が禁じていた宗教の確認をするために、踏絵(ふみえ)なども行われた。イエスの姿が書かれた絵を踏ませる。ためらって踏まないものは、その信者だと決め付けたのである。

しかし、仏なども開眼(かいげん)をするまでは魂の入っていない単なる物体だとする風習があるので、その絵を自分に対しては一種の道具に過ぎないと考えることはできなかったのか。

イグナティウス=デ=ロヨラは、「論理で考えるのではなく、研ぎすました直感」によって判断しなければならないと言う。例えば「道に麦わらが十字架の形になって落ちていたら、何かの暗示か?」などと考えず、「たまたまそんな形になっただけ」と結論付けるのである。
雨の日と曇った日には写りが悪い。


デジカメの写真である。もしかしたら、安物だからかもしれない。青空でなく、雨の日や曇った日は、寺院などの屋根と空との境目が、はっきりしないのである。つまり、どこまでが屋根であるかがわからない。

そんなわけで、雨の日や曇った日には、戸外の写真を撮りに行かない。撮影した写真の修整の仕方もあると思うが、私は難しいことが苦手なので、やったことはない。単に自動調整というのを確かめる程度で、輝度などを修正することは技術的にできない。

また、望遠機能などもあるが、ソフト調整はできない。ただスイッチを押して、レンズの位置を動かすハードの調整だけを利用する。したがって、ある程度までの望遠しかできない。本当は、もっと勉強をして使いこなしたいのだが、私の技術力ではムリなのである。
やってみて、なるほど便利、スカイドライブ。


マイクロソフト社のWindows Liveである。いろいろと不便な点もあるけれど、25GBのエリアが費用を支払うことなく使えるので有りがたい。つまり、使わないと損なシステムだと言える。

私は、自分自身のパソコンのバックアップを取らない。面倒くさいからである。そして、今までバックアップを用いてリカバリーをしたことが一度もないから。ホームページの全内容は、1ギガバイト分がヤフー、そして1ギガバイト分がfc2にある。新しいパソコンに変えたりしたときなどで、自分側に必要なときには、タイムスタンプの不都合が生じるもののダウンロードすればよい。また、プログやYouTubeは記事がプロバイダ側にあるから、バックアップは不要。

そこで、ホームページやYouTubeに利用していない動画や未使用の画像は、すべてSkyDriveにいったん預ける。とても便利で、有りがたい。
ほどほどにする術(すべ)知って、こころ安らか。


キリのないことをせずに、何事もほどほどにする。とくに、老いてきて体力がなくなってからは、そのように考えてすることが大切ではないか。なぜならば、若いときのようにがんばり続けるとダウンしてしまうからである。

ほどほどにするというと、ちょっとちゃらんぽらんのように聞こえるかもしれないが、ある程度の余裕をもって計画をするということ。

駅周辺シリーズなどで、どこかを回るときもそうである。途中で疲れて歩けなくなってしまうからである。最近は、基点の駅から出発をして数キロ歩き、近くにバス停があったら、そこからバスで最寄り駅まで戻ってくる。そんな方法をすると、気持ちに余裕ができて何となく楽しく、こころも安らかである。
キリのないことをするのが、人の一生。


今までも「キリのないこと」については、何回か書いた。それでも、ふと考えるのである。いったい次々とキリのないことをしていって、どうなるのだろうか。もしかして、今していることがムダな無意味なことかもしれない。そして、単に本人だけの幻覚かもしれないなどと思ったりする。

ほどほどにする術(すべ)を知らなかったために、キリがないことをしていて、やがて疲れてしまう。


天台摩訶止觀がどのようなものか知らないが、『徒然草』第七十五段には
<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>
とある。
大変なことが自分に起こりつつある。


私は、日々ぼんやりと過ごしている。年金生活者になってからは、とくに稼ぐ必要がない。細々となら妻の分と合わせて、何とかやっていけるからである。

しかし、何となく大変なことが間もなく自分の身の回りに起こりつつあるような感じがするのはなぜだろうか。それは、ちょっと言いつくせないような不安感を伴う。つまり、自分自身の問題というよりは、社会全体が置かれた立場である。

簡単に言ってしまうと、社会システムのバランスが保てなくなって、崩壊をしてしまうという憂いなのだ。科学や文化の行き詰まりによって、個人の存在など問題にならないほどに、混乱が生じるのではないかという心配なのである。
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