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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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人生の意味知りたくて、『法華経』を読む。


ここのところ、『法華経』を読んでいる。鳩摩羅什の漢訳と、岩本裕がサンスクリットから訳した『正しい教えの白蓮』が偶数・奇数ページに対応させてある岩波書店の文庫本である。上・中・下の三分冊になっていて、なかなか読み応えがある。

最初の序品(じょほん)第一には、釈迦の言葉はいっさいなくて、イントロダクションである。それでも、漢訳は「如是我聞」から始まっている。サンスクリット訳のほうは、「いわれ」という章になっている。

何回か読んでみたが、全体的にスケールの大きな、ちょっと大風呂敷を広げたような感じの本である。それでも、たとえ話がいくつかあって、なかなか興味深い。放蕩息子の話などは『聖書』のプロディガルサンとまったく同じ。また、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の章は、とくに身近な感じで印象的。
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森繁と政木和三(まさきかずみ)で、決心をする。


私は、現在ガンの予防策として「ラップリン療法」を確かめている。なぜそんなことをするかというと、周りにガンで亡くなる人が急速に多くなっているから。今までの食生活や生活習慣を考えると、私と妻も危(あや)ういかぎり。

そこで、何となく「ラップリン療法」が安全で、手っ取り早い解決と思った次第。かつて、逸見アナウンサーがガンになったとき、森繁久弥がアドバイスをしていた。しかし、逸見さんはインテリだったので、それをしなかったようだ。さくらももこ『もものかんづめ』だったろうか、同じようなことが書かれているらしい。

初めは信じなかった私も、政木博士が林原研究所で言うのだから、信じないわけにはいかなくなった。林原研究所のようなアカデミックの場所で、それが真面目に話題になっていたこと自体、私は真実を垣間見たような気がする。
「ラップリン」、安全でタダ、ガンの対策?


「ラップリン」というガンの療法というか、予防法がある。「病は気から」などと言い、精神力や気の持ちようで病気が快癒する事例は、古くからある。白隠禅師の「なんその法」なども、その一つ。国立競技場駅周辺の真成院には、「癌かけこみ寺」の幟(のぼり)があった。

しかし、私はもっと具体的にフィードバックによってホメオスタシスを強化する方法を考えた。似たようなことを森繁久弥氏やさくらももこ氏が実践していたらしい。中尾先生が書物に書いておられるし、政木博士が講演会でテーマにしていたので、私は偽りのない事実だと思う。

そして、さらに食べ物や飲み水、空気などを注意をすることによって、確実に成功すると私は思う。むろん、同時に化学薬品症候群を生じないようにする注意も必要である。
何故か? 蝦蟇と狸と小便小僧。


牛込柳町の宗円寺である。しかし、もしかしたら地続きで、前隣りにある田中石材店かもしれない。宗円寺の境内には、同じくらいの大きさの一柱の魚籃観音がおられた。その観音さまは、ちょっとお体を曲げたポーズで、手に鯉の入った篭をもっておられる石像である。

この通りに面して立った五体は、とてもエキセントリックな組み合わせだ。左から、まず小さな蝦蟇(がま)。さらに、キンタマの大きな狸(たぬき)。そして魚籃観音さま。小さい仏。最後の右端が、小便小僧である。

何となく、石材店の中にあった古いメンバーが、ぞろぞろと通りにまかり出てきた感じ。それにしても、魚籃観音の脇侍というには、ちょっと変なメンバーではないだろうか。実際のお姿のあらましは「文の追補」で、そしてその詳細は「牛込柳町駅周辺」でご覧ください。
効率の悪い機関に似ている身体(からだ)。


老いてくると、何となく身体(からだ)の調子がよくない。それは、機械などでも言えることではないだろうか。例えば、自動車。新車のうちはスイスイと走る。しかし、古くなってくると故障しがち。何となく、具合が悪いのである。

人間の身体も、似たような現象を呈す。おそらく、細胞分裂の回数が決まっていて、それに近くなると正常な発育ができなくなるのではないだろうか。

バッテリーの性能でもそうである。最初のころは、一回充電をすると、かなり長持ちした。しかし、古くなってくると、すぐに放電をしてしまう。そして、全体の機能がアウトになる。自動車でもデジカメでも同じ。すると、バッテリーを交換するか、または全体を新品に買い換えなければならない。
小魚の目とかち合いて、恐れを知れり。


煮干で、出汁(だし)をとる。私は捨てずに、そのまま食べる。むろん、煮干は死んでいて、もはや生命はないはず。しかし、その煮干の目が私を見ているような感じを受けて、ドキッとすることがある。そして何となく、恐ろしくなる。

私たちの食事は、すべて他の生命を奪っている。玄米を炊くが、釜で炊くまでは生きている。なぜならば、玄米を水に入れておくと発芽をするからである。その他の肉や魚も、最近までは生きていた。つまり、生命をもっていた。

埴谷雄高『死霊の世界』には、魚がイエスに抗議をするくだりがある。また、釈迦でさえ豆に苦情を述べられるのである。聖人といえども、生きていくためには他を犠牲にせざるをえない。「捨身飼虎」「捨身羅刹」のことを考えると、私たちは傲慢で、無神経すぎるのではないか。
衰えし身体(からだ)已(や)む無し、せめて心は。


ここのところ、身体が次第に衰えてきた。もしかしたら、急に老け込んでしまうかもしれない。しかし、心の持ち方でフレッシュでいることもできそうである。

それは、サムエル・ウルマンの『青春』という詩にあるように、気持も持ち方が必要だ。私は若々しく見えると、いつも回りから言われる。つまり、身体のみならず考え方も幼稚であるからだろう。でも、さすが古希を過ぎるとがっくり。古来(こらい)稀(まれ)なのであるから仕方がない。

いちばんいいのは、気持は若々しくして、一方では安心立命を考えておくことだろう。私の人生において、残された大きな仕事というと、「死」であるから、ぼつぼつそれに備えなければならないのではないか。
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