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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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小魚の目とかち合いて、恐れを知れり。


煮干で、出汁(だし)をとる。私は捨てずに、そのまま食べる。むろん、煮干は死んでいて、もはや生命はないはず。しかし、その煮干の目が私を見ているような感じを受けて、ドキッとすることがある。そして何となく、恐ろしくなる。

私たちの食事は、すべて他の生命を奪っている。玄米を炊くが、釜で炊くまでは生きている。なぜならば、玄米を水に入れておくと発芽をするからである。その他の肉や魚も、最近までは生きていた。つまり、生命をもっていた。

埴谷雄高『死霊の世界』には、魚がイエスに抗議をするくだりがある。また、釈迦でさえ豆に苦情を述べられるのである。聖人といえども、生きていくためには他を犠牲にせざるをえない。「捨身飼虎」「捨身羅刹」のことを考えると、私たちは傲慢で、無神経すぎるのではないか。
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