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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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人生は成住壊空、空しかるべし。


成住壊空(じょうじゅうえくう)という言葉があります。私たちは、ふつうの状態では、成・住・壊・空を永遠に繰り返すといいます。つまり、
(1) 成(じょう)……元素が集まって一つの生命が始まる(誕生)
(2) 住(じゅう)……生命活動(子どもから大人への成長)
(3) 壊(え)……生命体の終末(老化 → 死)
(4) 空(くう)……生命が空の状態になる(空として宇宙に存在する)

生老病死(しょうろうびょうし)と同じような考え方ですが、最後には空(くう)の状態があるのに注意してください。

生命が一時的に空(くう)の状態になるとは、何とも致し方なく、空(むな)しいことではありませんか。
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本当か? 生老病死、成住壊空。


四苦八苦の四苦である「生老病死」(しょうろうびょうし)は、何となくわかる。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、そして死ぬ苦しみ。いずれも、つらいことだと思う。もっとも、私はまだ死んだことがないから、死の苦しみに関してはわからない。

「成住壊空」(じょうじゅうえくう)は、やはり四行程ある。しかし、これはちょっとわかりにくい。なぜならば、最後に「空」の状態があるからである。いったい、「空」とは何であろうか。

人間は死ぬと、空の状態になると言う。その空の状態とは、どんな感じであろうか。脳を離れた感覚と思考の世界だと言う人もいる。しかし、脳がなくなると思考そのものが、実際に可能なのであろうか。そんな心配がある。
もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


何となくなつかしく、もう一度行ってみたいと思う場所がある。同じような心境について、
「もう一度、会ってみたいと思う人あり。」
というのを作ったが、人より場所のほうが、そのイメージは正直である。

人が大きく変わるのと同様に、場所も変化する。例えば、多摩ニュータウンの以前にあった道や農家は、どこを探してもすでにない。開発をされてしまったからである。

しかし、そうは言っても、そこと似たような場所は残っている。町田市の北部で、現在も未開発のまま残っている地域。そこを歩いてみると、かつて歩いた場所にデジャビュしたような感覚がよみがえる。そして、何となくなつかしさが戻ってくるから不思議でもある。
もう一度、会ってみたいと思う人あり。


かつて親しかった人で、お互いに消息がわからない人がいる。そんな人が、なつかしくなることがある。もう一度、会ってみたいと思ったり、話をしたいとも思うのである。

しかし、思うだけのほうがよいかもしれない。過去に、たまたま何かの機会にそんな人と出会うことがあった。なつかしさは大きかったものの、すぐに幻滅を感じた経験があるのだ。

つまり、相手は変わってしまっていた。昔のフレッシュさはもはやなく、狡猾なエリートサラリーマンになっていたりする。そして、会社で重役クラスの待遇を受けているせいか、何となく態度も尊大である。会わなかったほうがよかったなどと反省をしつつ、ただ私は卑屈な笑いで自分自身をごまかしていた。
プチさんの追加・修正、お願いします。


プチさん(プティ散策)の記事に、今までに行けなかったところ、気付かなかったところなどを補足していきたいと考えています。青空のホームページにある「プチさん駅周辺シリーズ」です。

お気づきの場所があったら、どうぞ教えてください。どうしても、初めての場所だと、見落としや勘違いがあります。そのような箇所は追加をしたり、記述を修正したいと思います。

高齢者が、いつまでも健康を保つために、「バスを利用したプチさん」を昨年から始めました。足を痛めないようにして、少しでも遠くへ行くために、バスはとても有効です。そんなわけで、今後はバス路線も多く回ってみたいと考えています。よろしく。
ひらひらと散ることなしに、まだ付いている。


高幡不動尊の山門左側うん(吽)形仁王の柱に、散華札(千社札)を貼り付けたのが三ヶ月前。きょう(一月三日、日曜日)、妻と参拝に行って見たら、まだ貼り付いていた。

境内は、あふれるばかりの人々。行列は、なかなか進まない。何となく押されたり、転びそうになったりする。危ないので、途中でやめた。「陝右の人たち」の散華札に会えたので、それで私たちは満足をした。

私の散華札は、蓮の花びらの形をしている。したがって、散ってもよい。糊が強力でないために、左右の部分がはがれてしまった。おそらく、やがて落ちてしまうだろう。せめてストンと落ちずに、金色の小さい鳥のように、ひらひらと散って欲しいものだ。そんなことを考えながら山門を入ったところで、簡単に参拝を済ませて帰った。
甘いもの多く食べると、身体(からだ)そこなう。


栄養学や医学について、あまり知識はない。そこで、自分なりに感じた範囲で記述をしてみよう。どうやら、糖質を多く摂ると、体内のカルシウムを失って、骨が弱くなるらしい。

そこで、台所には砂糖を置かないことにした。したがって、我が家では外食のとき以外は、とくに砂糖を摂らない。たいがいのものは、砂糖なしでも食べられるようになった。甘さがなくても、何とか自然の味が楽しめる。しかし、小豆を煮たものに甘味がないと、おいしくないと妻が言う。

甘いものをまったく食べないというわけではない。ドーナットも食べるし、飴もしゃぶる。自分で作る料理に、砂糖を使わないだけ。「ヴィーグル号」だったろうか、現地人が角砂糖一個をもらって、喜んで一日働いたという話を思い出したりしながら、……。
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