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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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除夜の鐘、初詣でして、年を区切りぬ。


毎年のことである。近くの観蔵院で、除夜の鐘を撞く。それから、小野神社に初詣で。観蔵院は、歩いて三分。小野神社は、十五分。つまり、近くで済ますわけである。

観蔵院には、行列ができる。振る舞い酒があって、お土産まで出る。そんなために、ここ数年だいぶ長い行列ができるようになった。しかし、小野神社には私と妻の他に、せいぜい十人くらい。神主さんや破魔矢などの売店に出ている巫女さんのほうが多い。

観蔵院には、山号と寺号がないみたい。小野神社は、延喜式内の由緒ある神社。鳥居や山門にも菊のご紋が付いている。歴史が古く、由緒ある神社であるのに、参拝者が少ないのはなぜだろうか。
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新しき年を迎えて、希望と不安。


「今年こそは……」と考えるのは、毎年のこと。そして、やがて次の年になる。年・月・日などは、単に区切りにすぎない。一瞬一瞬が、過ぎ去っていく。

「須臾」(しゅゆ)という言葉がある。「須臾も忘れず」とか、「須臾の命」などと言う。ごく短い時間のことである。この、ほんの少しの時間が積み重なって、人生になる。だから、特別に新年に限ったことではない。

希望は、常にある。しかし、ここのところ社会情勢や政治・経済の成り行きを考えると不安も大きい。また、自分の健康についても、ほとんど自信がない。そんなことも、不安の一つ。いずれにしても、この新しい年を迎えて、何となく黒雲が漂っている嵐の前のような気配を感じるのは、私だけであろうか。
思いつくままにメモして、日々の断片。


そのときどきに思いついたことをメモして、日々の「記憶の断片」とする。そのようにすると、後でそのときに考えたことを思い出したり、まとめたりすることができる。いわば日記帳や備忘録のようなもの。

それでも、中には小説の素材ともなるようなモチーフが含まれているかもしれない。いずれも自分自身の「生きている証明」でもあり、それ自体が自分自身を見つめなおす「鏡」のようなものだと思う。そして、それがさらに発展できるのであれば、それ以上のことはない。

そんな意味で、この五七七で作られた新句(十九音)も、意味があるのではないか。簡単なので、あなたも利用していただきたい。やってみると、ふつうの日記や備忘などよりも、ずっと軽い気持ちでどんどん作れるでしょう。
パタパタをすると細菌、落とせるのでは?


私は帰ってくると、十二階のフロアでパタパタをします。タオルを二つにして、曲げたほうを持ってパタパタと衣服を叩(はた)くのである。まず、左手。次に持ち替えて右手。そして、同様にズボンの右足と左足。

そのようにしてから、玄関のドアを開けて、部屋に入る。かなり強く叩くので、ちょっと痛いくらい。パタパタをすると、外で拾ってきた細菌を衣服から落とせるのではないかと考えたからだ。

そんなことをしても、安全とは言えないだろう。しかし、しないよりもしたほうがよいと思う。最近はバスに乗るので、細菌を拾う確立がかなり増えているかもしれない。そんなことを考え、ここのところパタパタを必ず実行している。単に気休めにすぎないかもしれません。いかがなものでしょうか。
少しだけ注意をすれば、病気は治る?


最近になって、わかったこと。日々少しだけ注意をしていれば、病気は治ってしまう。例えば、長い期間をかけて患った成人病だ。私の場合は、糖尿病と高血圧であった。それらが最近になって、ほぼ全快をしたようだ。

それで病院にかかったことはなく、自分の工夫と責任で何とか治ったみたい。ただ、食生活と生活習慣に配慮をしただけである。生活習慣にはバスを利用した散歩を始めたことなども、大きな効果があったようだ。

食生活は五年来の努力が実を結んだのかもしれない。簡単に言うと、台所に塩と砂糖を置かない。むろん、味噌・ソース・マヨネーズ・トマトケチャップも。そのような生活をしていると、尿糖がほとんど出なくなったし、血圧も大幅に下がった。外食をするので、あえて家で塩と砂糖を摂取する必要はないのであろう。美味を求める以外には、……。
「けんそんのしおり」を読んで、おごり失う。


「おごり」は「奢り」と書いて、「ぜいたく」や「奢侈」(しゃし)のことである。また「驕り」は「傲り」とも書き、「思い上がり」。しかし、読むたびに私は、気持ちが引き締まる感じであった。

「けんそんのしおり」は、レオ十三世の書いたものをデランジェラが訳した小冊子。ドン・ボスコ社から出ている。私は、この本を読んで自分自身を反省し、生活の奢りや気持ちの驕りまで失ってしまった。

十九世紀のカトリック教会は、近代科学の思想を否定することによってアイデンティティーを保持しようとした。そして、近代社会とカトリック教会は相容れないという印象を世界に与えたが、レオ十三世はこの状況を憂慮して、「理性と信仰の調和」という思想に解決を見出そうとした。そして、信仰と科学思想が共存しうることを訴えたのである。
誰からも習うことなし、無学の人は。


渡邊師は、私と比べると仏教や健康について非常に詳しい。だから、お話をうかがっていると短時間で、かなり多くのことが学べる。今までに、そのような先生は、あまりおられなかった。

逆に、いろいろと説明をしなければならなかったり、相手の疑問に答えないと話が進まないことが多い。いきおい、私は会話が面倒になってしまうのだ。

仏教に関しては、ずいぶんと教えられた。私から見たら、渡邊師はほとんど無学である。私も仏教については勉強をしたので、まんざらではないつもりである。しかし、まだまだ無学の状態にはなっていないであろう。つまり、自分が学ぶということは、他人に教えられる状態になるということではないだろうか。そんな意味で、渡邊師のお話は素晴らしい。
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