忍者ブログ
rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
ブログ内検索
ご案内


現在、このプログではコメントなどを受け付けていません。
お恥ずかしい個人的な内容が多いからです。それでももしも、ご意見やご質問があればここから願います。


似顔説明

[194]  [195]  [196]  [197]  [198]  [199]  [200]  [201]  [202]  [203]  [204
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

同じこと繰り返す日々、楽しからずや。


私は鈍く、しつこいせいか同じことを何回も繰り返す。まったく、それに飽きてしまわないのが不思議。それどころか、同じことの中にも新しい発見が次々とあって、とても楽しい。

そんなわけで、気に入った書物なども繰り返して何度も読む。読んでいると、ふと新たな考えが浮かんだりする。また、プチさん(プティ散策)なども改めて同じ場所に行ってみる。季節が変わったり、環境が変わっていたり、新たな発見があったりして、何とも楽しくなってしまう。

繰り返すと、くどいという人もいる。しかし、そう私は思わない。人間の心臓や肺の機能、そして社会の機構などを考えると、反復していることがほとんど。むろん、その中に進歩はあるだろう。しかし、それも同じことを続けていると、必然的に見出されたことに違いない。
PR
これもまた至福の至り、エクレール・ラテ。


ミスタードーナツでドーナットをほうばり、カフェオーレを飲む。何とも幸せだ。しかし、ミスドがいっぱいで入れないときがある。そんなときは、いじきたない私は、スターバックへ行く。

そして、キャラメル・エクレール・ラテを二番目の大きさのカップで注文。冬はホットで。少し待つとできる。それが、またおいしい。

名前の由来は、よくわからない。おそらく、「エクレール」は洋菓子を意味するエクレア(Éclair)のフランス語読みだろう。そして「ラテ」(Latte)はイタリア語で、牛乳の意味。そんなことを考えながら、幸福の須臾を過ごす。冬は店内、春から秋は外の席。甘さに弱いのは仕方のないことだが、何とも単純明快な至福の一時である。
やがて来る滅びの日々に生き延びれるか?


人類の浄化をするとしたら、どうであろうか。つまり、不要な人間の一掃をしてしまうのである。例えば、無用な老人・自分のことだけしか考えないで生きている人・利益を求めて、あくどいことをする人・他人を殺したり、傷つけたりする人など。

「最後の審判」ではないが、一人ひとりの評価を行って、今後も残しておいたほうが全体のためいよいか悪いかを判定する。そして、悪い場合は滅ぼしてしまう。

そのようなことは、「聖書」などにも書かれている。それらの記述は、まったくのフィクションではなく、かつてそのようなことがあった記録の残骸であろう。ただ、事件そのものが私たちの記録に残されていないために、信じないのである。直感ではあるが、滅びの日々が来ることを知った。
支配され、生かされている認識はない。


私たちは、「自分が生きている」と思っている。しかし、そうであろうか。農場で育てられる苗や牧場で飼育されている家畜などと、まったく同じ立場にあるのではないか。

世界中で増加し続けた人間、全体が豊かになるためには、かなり増えすぎてしまったのである。戦争や紛争が絶えないのも、人口の増加に原因があるのかもしれない。

野菜の苗などは間引いて、良いものだけを残す。キャベツなどができすぎたときは、ブルトーザでひき潰してしまう。ムダな育成を省いて、生産量を下げないためである。また、一個当たりの市場価格を下げない処置もする。もしも人間が実験場にいるとしたら、FMなどの支配者はぼつぼつ対策を考えて、人口を大幅に減らす処置をするかもしれない。
何のため、何をしてるか、問うてもみたり。


いったい自分は何のために、何をしているのだろうか。そんなことを意識して考えることがある。そして、自問自答をする。

すると、なかなか結論が出ない。価値観の問題や個人差の程度もあるので、いちがいには言えないが、そんなことをまったく考えていない人が多いのではないか。

人生の意義、死んだらどうなるのか、そんなことを考えると、生きているのが煩わしくなってしまう。だから、何も考えないで日々を過ごしている人が多いのだろう。それは、そんなことを考えても、何の益にもならないと思い込んだり、また解決がつく問題ではないと決めてかかっている場合が多いようだ。
もう一度、行ってみたいと思う場所あり。


前に行ったところで、もう一度そこに行ってみたいなぁと思うことがよくある。それは、いったいどういう心理なのだろうか。単になつかしいとか、思い出ということではないようだ。

よく犯罪者が後日になって、犯行現場に現われるという。そんな小説や映画を見たことがある。なぜだろうか。自分が関係をした場所に行くということは、逮捕される機会を増やすのだから、なるべくやめたほうがよいのに。

その場所のイメージが記憶にあるものの、いったいそれはどこであったかを忘れてしまった場合もある。そして、自分自身の行動さえも、なぜそのようなことをするのかが理解できない。そこで犯罪を犯したのではないから、行ける範囲で私は確かめてみたい。
路線バス、乗り継いでするプチさんもOK。


足を痛めたので、路線バスを乗り継いで、プチさん(プティ散策)をするようになった。そんな方法で、手始めに下記を行った。
(1) 拝島と熊川を除く五日市線
(2) 滝山街道の一部分
(3) 秋川街道の一部分
(4) 陣馬街道とダイヤする部分

五日市線と言っても、東秋留、秋川、武蔵引田、武蔵増戸、武蔵五日市のJR各駅を基点にしたのではなく、平衡するバス路線を利用した。

滝山街道は、純心女子学園から戸吹町まで。秋川街道は、楢原町から田守神社前まで。陣馬街道ダイヤは、四谷・切通し・川原宿(川原大橋)・宮の前(城山大橋)で囲まれた範囲とその各バス停周辺。
忍者ブログ [PR]