rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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勘違いする人多いネットの社会。
インターネットの社会は、情報の伝達がすばやく出来て素晴らしい。しかし、ともすると無責任な投稿やメールが多く見られる。自分自身が無知で愚かなために、勘違いをするからだ。
私も、かつて手書きの時代には、久しく「勘違い」を「感違い」と勘違いしていた。また、この「日々記憶の断片」に『偶成』の
<少年老い易(やす)く学成り難(がた)し……>
を引用したときに、作者を「朱子」としたら、「朱熹」の間違いではないかというコメントをいただいたことがある。その人は、わざわざウィキペディアで調べたと書いてあった。
しかし、そのコメントは無記名で単に「朱子じゃない人」とあった。ていねいにお礼を書いておいたが、なんとなく自分の無学や軽率をお互いに恥じるのがいやになって、コメントを受け付けないようしてしまった。私(rik)は、無記名の投稿をしないようにしている。
インターネットの社会は、情報の伝達がすばやく出来て素晴らしい。しかし、ともすると無責任な投稿やメールが多く見られる。自分自身が無知で愚かなために、勘違いをするからだ。
私も、かつて手書きの時代には、久しく「勘違い」を「感違い」と勘違いしていた。また、この「日々記憶の断片」に『偶成』の
<少年老い易(やす)く学成り難(がた)し……>
を引用したときに、作者を「朱子」としたら、「朱熹」の間違いではないかというコメントをいただいたことがある。その人は、わざわざウィキペディアで調べたと書いてあった。
しかし、そのコメントは無記名で単に「朱子じゃない人」とあった。ていねいにお礼を書いておいたが、なんとなく自分の無学や軽率をお互いに恥じるのがいやになって、コメントを受け付けないようしてしまった。私(rik)は、無記名の投稿をしないようにしている。
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異なったイメージをもつ天使と悪魔。
ミカエル、ガブリエル、ラファエルなどの天使に対して、サタン、デーモン、バアルなどの悪魔がいる。そしてふつう、「天使は善で、悪魔は悪」というように、天使と悪魔は正反対のイメージを与える。
しかし、堕天使のような存在を考えると、もともとは同じものだったのかもしれない。
つまり、善と悪とは相対的なものであって、時代によっても価値観は異なっている。また、旧約聖書などでは神に対抗する存在を悪魔としている。そして、例えばバアルを何回も悪く言っている。
もともとバアルは、カナン地方で豊穣の神として崇められていた。それがエリヤと争って破れ、その信奉者(預言者)五百人が殺された。その結果、人間のほかに猫とヒキガエルの三つの頭をもつ不気味な姿にされたようだ。
ミカエル、ガブリエル、ラファエルなどの天使に対して、サタン、デーモン、バアルなどの悪魔がいる。そしてふつう、「天使は善で、悪魔は悪」というように、天使と悪魔は正反対のイメージを与える。
しかし、堕天使のような存在を考えると、もともとは同じものだったのかもしれない。
つまり、善と悪とは相対的なものであって、時代によっても価値観は異なっている。また、旧約聖書などでは神に対抗する存在を悪魔としている。そして、例えばバアルを何回も悪く言っている。
もともとバアルは、カナン地方で豊穣の神として崇められていた。それがエリヤと争って破れ、その信奉者(預言者)五百人が殺された。その結果、人間のほかに猫とヒキガエルの三つの頭をもつ不気味な姿にされたようだ。
「振り込め」はルール違反で、悪い世の中。
「振り込め詐欺」が大流行している。騙すほうも巧妙になっているが、騙されるほうもその被害が多くなっているという。とくに、高齢者の被害が増加しているらしい。
しかし、そのような犯罪は恥ずかしいことである。
犯罪を行う人、つまり犯人は世間に対して自分の非人格や恥を公開しようとしている。また、そのような犯罪が流行する社会自体が、恥じるべき状態。
プロレスの試合。次々と救急車が来て、多くの死人が出たりはしない。力道山は、リンクの外の不注意で亡くなった。リンク上では、最低のルールを守るからだ。『荀子』だったか、幼児がよちよちと井戸のほうに歩いて行って落ちそうになる。そばに居た人が、慌てて救い上げる。基本的な人情だからだ。
『蜘蛛の糸』のカンダタや聖ペテロの母などは、創作なのではないか。
「振り込め詐欺」が大流行している。騙すほうも巧妙になっているが、騙されるほうもその被害が多くなっているという。とくに、高齢者の被害が増加しているらしい。
しかし、そのような犯罪は恥ずかしいことである。
犯罪を行う人、つまり犯人は世間に対して自分の非人格や恥を公開しようとしている。また、そのような犯罪が流行する社会自体が、恥じるべき状態。
プロレスの試合。次々と救急車が来て、多くの死人が出たりはしない。力道山は、リンクの外の不注意で亡くなった。リンク上では、最低のルールを守るからだ。『荀子』だったか、幼児がよちよちと井戸のほうに歩いて行って落ちそうになる。そばに居た人が、慌てて救い上げる。基本的な人情だからだ。
『蜘蛛の糸』のカンダタや聖ペテロの母などは、創作なのではないか。
最近は、公徳心とモラルの欠如。
公徳心は、公徳つまり「社会生活の中で守るべき道徳」を重んじて守ろうとする精神のこと。モラル(moral)も道徳ではあるが、倫理つまり「善悪・正邪の判断において普遍的な規準」のような基本的なものであろう。
現代社会は技術が高度に発展をしたが、金がすべてであるような風潮になって、公徳心、モラル、そして礼儀なども欠けてしまったようだ。政治家・公務員・教職員なども、その傾向にある。
そんなわけで小学生や中学生も、いきおいそうなってくる。
パソコンや携帯電話など技術の最先端をいく道具の使い方なども、かなり大きな問題を含んでいるようだ。
ある程度、公徳心やモラルの教育も学校でして欲しいものだ。
公徳心は、公徳つまり「社会生活の中で守るべき道徳」を重んじて守ろうとする精神のこと。モラル(moral)も道徳ではあるが、倫理つまり「善悪・正邪の判断において普遍的な規準」のような基本的なものであろう。
現代社会は技術が高度に発展をしたが、金がすべてであるような風潮になって、公徳心、モラル、そして礼儀なども欠けてしまったようだ。政治家・公務員・教職員なども、その傾向にある。
そんなわけで小学生や中学生も、いきおいそうなってくる。
パソコンや携帯電話など技術の最先端をいく道具の使い方なども、かなり大きな問題を含んでいるようだ。
ある程度、公徳心やモラルの教育も学校でして欲しいものだ。
老いたらば求められないことは、ほどほど。
あれもしたい、これもしたいなどと考える。
若いころは、それでも力任せ(ちからまかせ)にやったから、何とかできた。しかし、老いてくるとスタミナが続かなくなってしまう。
その結果、中途半端になったり「百舌の速贄」(もずのはやにえ)になりがち。仕方のないことであろう。
そんなために、自分自身に言い聞かせる。しきたりになっていることは何とかするが、求められもしないことを次々と際限なくするのは、愚かなことである。それは、「蛙の腹自慢」と同じじゃないか。むしろ、老化予防を目的とした自分自身のためにするほかは、あまり深入りをすべきではないんだ。
精神的にも、ある程度「足るを知る」ことが必要なのではないか。
あれもしたい、これもしたいなどと考える。
若いころは、それでも力任せ(ちからまかせ)にやったから、何とかできた。しかし、老いてくるとスタミナが続かなくなってしまう。
その結果、中途半端になったり「百舌の速贄」(もずのはやにえ)になりがち。仕方のないことであろう。
そんなために、自分自身に言い聞かせる。しきたりになっていることは何とかするが、求められもしないことを次々と際限なくするのは、愚かなことである。それは、「蛙の腹自慢」と同じじゃないか。むしろ、老化予防を目的とした自分自身のためにするほかは、あまり深入りをすべきではないんだ。
精神的にも、ある程度「足るを知る」ことが必要なのではないか。
常温で腐敗をしない食べ物、注意!
私(rik)は、常温でも腐敗しない食べ物には注意をしている。その結果、なるべく食べないようにしていることも事実。野菜、果物などは早めに食べる。
醤油などは、テーブルの上に置いても腐敗しないものは避ける。開栓後は冷蔵庫に保管する注意書きのあるものしか使わない。ついでながら、味噌・マヨネーズ・トマトケチャップなどは、私の家には置いていない。
近年になって食中毒や食品の腐敗について、消費者の間で騒ぎすぎる傾向がある。そんなために、メーカーは防腐剤を入れざるをえない。そもそも牛乳が常温で保存できるなどということは、どう考えても不思議なことである。
私はあまり食べないが、肉から作るハムや魚から作るカマボコなどが常温で痛まないなどということも、それなりに理由があるのであろう。
私(rik)は、常温でも腐敗しない食べ物には注意をしている。その結果、なるべく食べないようにしていることも事実。野菜、果物などは早めに食べる。
醤油などは、テーブルの上に置いても腐敗しないものは避ける。開栓後は冷蔵庫に保管する注意書きのあるものしか使わない。ついでながら、味噌・マヨネーズ・トマトケチャップなどは、私の家には置いていない。
近年になって食中毒や食品の腐敗について、消費者の間で騒ぎすぎる傾向がある。そんなために、メーカーは防腐剤を入れざるをえない。そもそも牛乳が常温で保存できるなどということは、どう考えても不思議なことである。
私はあまり食べないが、肉から作るハムや魚から作るカマボコなどが常温で痛まないなどということも、それなりに理由があるのであろう。
雨安居(うあんご)といいて、部屋にて瞑想をする。
私(rik)は、雨が数日続くときに、自分なりに雨安居(うあんご)などと言って、部屋にこもって瞑想をすることにしている。必ずしも、梅雨のときでない。
本来の雨安居は、インドで夏の三ヶ月間に雨が多いので、僧侶が外出を避けて部屋で修行をすることをいう。その期間を一夏(いちげ)といい、雨安居・夏安居(げあんご)などともいう。
いずれにしても、私は僧侶ではないので瞑想と言っても、かなりいいかげんなもの。いちばん多いのは、自分自身が宇宙に溶け込んだ状態を想像する。気ままに飛び回ることも、空想の中では可能だ。そんなことをしていると、何となく楽しい。
いったい、何が現実なのであろうか。そんなときには、いつも『荘子』の「胡蝶の夢」を思い出す。
私(rik)は、雨が数日続くときに、自分なりに雨安居(うあんご)などと言って、部屋にこもって瞑想をすることにしている。必ずしも、梅雨のときでない。
本来の雨安居は、インドで夏の三ヶ月間に雨が多いので、僧侶が外出を避けて部屋で修行をすることをいう。その期間を一夏(いちげ)といい、雨安居・夏安居(げあんご)などともいう。
いずれにしても、私は僧侶ではないので瞑想と言っても、かなりいいかげんなもの。いちばん多いのは、自分自身が宇宙に溶け込んだ状態を想像する。気ままに飛び回ることも、空想の中では可能だ。そんなことをしていると、何となく楽しい。
いったい、何が現実なのであろうか。そんなときには、いつも『荘子』の「胡蝶の夢」を思い出す。