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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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不可解な現象多く、限界を知る。


この世には、理解しがたいような現象があまりに多い。科学が進み、学問が細分化した今日でも、説明のできないようなことがある。もしかしたら、私たち人類とは異なる知的生命体がいるのではないかと思うことさえある。

また、際限のない抗争を繰り返しているのも不思議である。
原始時代と比べると、すでに現代の生活は夢のような状態。それでも、次から次へと新しいものができる。

すでに豊かな社会なので、ある程度の要求は満たされている。したがって、こころの豊かな社会が実現してもよいのではないか。
次から次へと争いが生じるのは、いったいどうしたことだろう。
「かえるの腹自慢」や「オケラのきんたま」のように、何となく影の支配者に「やらせ」られているのではないか。
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霊魂は不滅か否か? 三橋氏の説。


私が尊敬をしている三橋伝三郎さんの書かれた『神仏の恵み』には、
<これは昔からの大問題である。霊魂の存在、存続を認めないと人生は不合理になるということで、その存在を認めた哲学者があったようだが、一般人には納得しかねよう。その存在を認めざるを得ない事実を知れば、詳細は分からぬとしても、その存在を疑えなくなるだろう。>
とある。

まったく断定などをしないで、その文章通りだとつくづく思う。
学生時代に読んだ西田幾多郎『善の研究』にも、そのようなことが書かれていた。もしかしたら、霊魂でなく宗教となっていたかもしれない。

とにかく、あるかないかの問題は「ない」と片付けてしまうのではなく、「あって」もよいようにフレキシブルに考えておくほうがよいのではないか。来るか来ないかわからない地震に、しっかりと備えておくように、……
よいよいにならねばよいと、いよいよ思う。


ここ二年で、次第に体調を崩してしまった。
そして、いよいよ現実の問題として「よいよいにならなければいいなぁ」などと思うようになった次第。なぜならば、私は父と母から、その遺伝子をいただいているからである。
父は脳梗塞で倒れて、その翌日死んだ。また、母はやはり脳出血で片麻痺(半身不随)で入院、そしてリハビリをしたものの甲斐がなく間もなく死亡。そんな家系に私はあるので、大いに心配。

よいよいや寝たきりには、何としてでもなりたくない。
そのために、いろいろと調べたり、やってみたりしている。

もともと、『青空のホームページ』は「健康」と「老化予防」、さらには欲張って「安心立命」のために始められたものだ。
ソリティアは、老化予防に好ましくあり。


あなたは、ソリティアというトランプの一人遊びをご存知でしょうか?
全カードを赤黒のカード交互に、マウスをドラッグして数の逆順に並べていき、占いや運勢などを自分なりに調べるゲームです。持ちカードのあるタイプでなく、私は単純なすべてめくりカードになっているのをします。

なかなか手順を説明するのはむずかしいものですね。
「百聞は一見にしかず」と言います。
そこで、ここをクリックして、ご自分でやって確かめてください。ここに紹介した優れものは、GAMEDESIGN社さんの無料ソフトです。

パソコン作業の合間などに、気分転換の意味も含めて、私はときどきします。三回分のチップを用いて、いつまでもすることのないようにして、老化予防のための有効なツールとして活用させてもらうのです。

いつも飲む中瓶のビール、とてもおいしい。


入院・手術をしてから、体力をカバーしなければならなくなった。なぜならば、体内のパラサイトがなかなか陰性にならなかったからだ。そこで、長年やったベジタリアンを放棄した。つまり、肉食を始めたわけである。

しかし、家庭では肉食ができない。電子レンジなどの調理道具がないからである。そんなわけで、外食をする。例えば、吉野家。いつも、プチさん(プティ散策)を終えて、午後2時ごろに行く。ガラガラなことが多い。

たいがい、豚丼と中瓶ビール。牛丼は、めったに食べない。豚肉が脳の活性化によいと中松氏が言っていたから。ビールは、自然水を使ったサントリーの500ml。大瓶は633mlであり、ちょっともてあます。中瓶しか置いてないので、やれやれ。
そんな意味で、吉野家は私のような菜食主義だったものにありがたい。
恥ずかしい存在の我、やめたくもあり。


いままでのことを考えると恥ずかしいことがあまりに多い。失敗と後悔の連続である。思い出して、いたたまれなくなることもしばしば。大声を上げたくなることさえある次第。

考えてみると、何をやっても中途半端だった。いいかげんなことばかり。自分自身ではがんばったつもりではあるが、やはり力量が不足していたのだろう。

そんなわけで、自分の存在自体が恥でさえあると考えざるをえない。しかし、いまからやりなおすわけにもいかないので甘んじたり、諦めてしまう。
そして、次第に消極的になる。つまり、自分自身の可能性を自ずから放棄してしまうんだ。古希を迎えるにあたって、消極的にならざるをえない。
何とかならないものか。

何となく、失敗ばかり続けてきたり。


考えてみると、幼いころから今日に至るまで、何となく失敗ばかりを繰り返してきた人生でもあるようだ。それでも、淘汰をされずに生きてきたので、我ながら不思議でもある。

いろいろと反省をすることが多い。
しかし、若い時代は過ぎてしまって、身体の具合が悪くなっている。そんなわけで、いきおいムリが効かない。
高齢になってからは身体そのものではなく、むしろ精神的な楽しみ方が必要になるのかもしれない。

橘曙覧の『独楽吟』や神沢杜口の『翁草』などを読むと、高齢にもそれなりの楽しみが多くあるみたい。
ぼつぼつ、そのようなことを学んでみようか。

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