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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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訃報聞き、今日は他人(ひと)の身、明日(あす)はわが身か?


親しかった友人の奥さんから電話がきた。口調ですぐにわかったが、やはり訃報であった。だいぶ前から弱っていたので、とうとうという感じである。

元気で互いに仕事をした日々がなつかしい。考えてみると、夢のようである。いったい、人の死などはいつ来るかわからない。弱っていても、なかなかアウトにならない人もいるからである。

そんなことを考えると、自分自身がいつアウトになるかわからない。つまり、大丈夫だという自信が、まったくないのである。ここのところ、疲れがたまって身体がだるい。また、記憶力も急速に薄れていくようだ。度忘れや失念が、多くなったのも事実。

念仏などを唱える時期に、私もなったのであろうか。
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作品を論理で見ずに、経験で見る。


まったく、その通りです。「論理」などは、まったく浅いものかもしれません。私は、さらに「直感」で見なければいけないと考えます。

実は、上のテーマはアガサ=クリスティの作品中でエルキュール=ポワロが言った会話です。『雲をつかむ死』(1992年イギリス)という映画の中で、ポワロがシュールレアリズムの美術館で、スチュワーデスにアドバイスした言葉、

<彼らの作品は、論理で見てはいけません。経験で見るのです。>

というくだり。
彼女が絵を見て、<よくわからない。>とつぶやいたときに、即座にポワロが言いました。私は、「なるほど」とうなずき、さらに作品だけでなくすべての対象にも、そう言えるのではないかと考えたのです。
「我々の武器は知識」と、ポワロは言った。


『ABC殺人事件』という映画の中のことである。エルキュール=ポワロが言った言葉。そして、さらに「我々は、そのことに気付いていないかもしれない」と補足する。

まったく、その通りだと思う。
この作品は、人間の深層心理を描き出していて、ちょっと現実離れをしているものの、よくできたストーリだ。非常にずる賢くて冷酷な人間がいて、真面目で小心なセールスマンを暗示にかけて事件に引きずり込む。考えてみれば、そのこと自体が恐ろしいことである。

さらに、考えれば何となく傀儡師(くぐつし)に操られているような気配が、世の中のすべてに感じられるので、物語がその秘密を洩らしているようだ。でくのぼう(木偶の坊)などとも呼ぶが、とんでもない。
面白くないことばかり、やけくそになる。


日々の生活には、面白くないことがあまりに多い。そこで、やけくそになる人がいるらしい。その結果、事件が発生する。もしかしたら、秋葉原電気街での大量殺人などは、そうかもしれない。

いくら自分が面白くなくても、人を殺したい気持ちになるのは不自然。破壊願望というか、終末思想に近いのかもしれない。つまり、もはや精神的に異常な状態なのである。
金をもっていさえすれば勝ち組で、何をしてもよいなどと考えがちな歪(ひず)んだ近代社会。そして、粗悪な食べ物が「化学薬品症候群」をきたす。

そもそも学校教育の基本方針が間違っているのだから、長期的には当然の結果が出始めているのだろう。この辺で、義務教育の内容に関して「しこめ(醜女)のお化粧」のようなことはやめて、根本的に考え直すべきだ。
何のため、何をするかが大きな悩み。


人生も終盤戦になってくると、日々何のために、何をしているかが問題になってくるのではないか。つまり、たいがいのことは中途半端になってしまいがちだから。そこで、何とかしなければならないと思って途中であせる。

しかし、焦(あせ)ったからとて、その作業が進むわけでない。
考えてみれば、今までの人生には多くのムダがあった。しなくてもよいことをしたり、しなければならないことをなおざりにしたり、いかに自分が愚かだったかがわかる。

その時点では、状態が飲み込めなかったために、そんなことになってしまったわけ。もう少し考えてから、みきわめをつけなければならない。
そんなことが、遅まきながらわかった。
忘れないうちに、整理をしたいと思う。


たいがいのことは、しばらくすると忘れてしまう。むしろ、それが当然のことであろう。そんな意味で、約束などは当てにならない。

しかし、自分自身が己にしたいわば約束がある。何かをしなければならない。何かをしたい。そんなことだ。

それが、なかなかできない。思うようにいかないのだ。そんな葛藤が生じることがある。

そこで、少なくとも忘れにくい工夫をして、それをときどき見直すことが必要。ノートや日記帳に書き込むのでもよいが、ホームページが理想的。なぜならば、グーグルの検索や地図を自分自身用にカスタマイズして使えるからである。そんな方法で整理をしたいと思っている。
ラッキョウかマトリーシカか? 裏の裏あり。


我々が生かされている空間には、「裏の裏」があるようだ。学問的には証明できないが、何となく直感的に感じる。「メビウスの帯(おび)」や「クラインの壷」のように、位相力学では考えられないことが多いからでもある。

冗談に、猿にラッキョウを与えると皮の下に皮があると勘違いをして最後まで剥(む)いてなくなってしまうという。マトリーシカ(マトリョーシカ)は、ロシアの入れ子人形。幼い子に与えると、中を取り出す。しかし、まだその中にあるということを教えないと、次を取り出せない。
次が出ると、さらに次を出そうとする。そして、もう出なくなっても、一所懸命に小さいマトリーシカをねじったりしている。

人生には、猿や幼児(おさなご)のような勘違いをしていることが、いつまでもあるようだ。
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