忍者ブログ
rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
ブログ内検索
ご案内


現在、このプログではコメントなどを受け付けていません。
お恥ずかしい個人的な内容が多いからです。それでももしも、ご意見やご質問があればここから願います。


似顔説明

[278]  [279]  [280]  [281]  [282]  [283]  [284]  [285]  [286]  [287]  [288
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

外食は、皿にも大きな問題がある。


外食は、おいしいものが手軽に食べれて、とても楽しい。しかし、素材のことを考えると、ちょっと心配。即席のものが、多くなったからだ。

例えば、ギョーザ。昔は、店で一つ一つこねて作っていた。しかし、最近は出来上がったのを大量に買って、冷凍庫にしまっておく。必要に応じて取り出すので、半年も前に作ったのを食べることになる。冷凍だから、味はよい。しかし、作成時からいろいろな化学薬品が混じっている。そして、解凍してそれをそのまま食べることになる。

また意外なことに、外食では食器、つまり皿などにも問題がある。店の作業を見ていると、洗剤の液にドボン。そして、水でサッと流して上向きに重ねて置く。よく漱(すす)がないので、当然ながら洗剤が皿の中にかなり残っていて、その上に料理が載る。ラーメンでは、洗剤入りのスープ。

何とかして、化学薬品症候群に注意をしたいものだ。

PR
継続は力なりけり、つくづく思う。


「継続は力なり」という言葉を聞いたことがある。まったくそのとおりだと思う。

プログなどを見ても、毎日続けている人と、途中で投げ出してしまう人がいる。期待したほどの訪問者がいないので、励みにならないのかもしれない。また、無意味なことをしていると考えて、いやになってしまったのではないか。

私は、あまり周囲のことは気にしない。誰が、どう思ってもよい。
また、金持ちになりたいとか、有名になりたいとは思わない。むしろ、その反対なのである。

嘘だと思ったら、だいぶ前に作った「私の福音書」を確かめていただきたい。もしも、信じられなかったら ここ をクリックして納得なさってください。
Googleの地図見たきゆえ、Java学びおり。


ここのところ、何とも大変なことを始めてしまった。
なぜならば、今ごろになってプログラミングなのである。そんなことをしているのは、Googleの地図を何とかして使いたいから。

そんな動機や原因を考えると仕方がない。
具体的には、「HTML」と「Java Script」のアルゴリズム。かつてやった「Java」プログラミングほどは難しくない。しかし、ホームページビルダー上でソースを作成してみると、メモ帳などと異なって文字がとても小さい。

いきおい目の負担が大きくなる。そうかと言って、メモ帳では行間が詰まってダメ。テラパッドなどがよいのであるが、もはや忘れてしまった。だから、目をショボショボさせながらするんだが、脳のリフレッシュにはよいかもしれない。
ご参考までに、ここ を。みなさんも、いかが?
プチさん(プティ散策)で初めての駅、心ときめく。


今まで、プチさん(プティ散策)などはしていないから、不必要なところへは行かなかった。そして、通過をする駅にもわざわざ降りることなどもしなかった。だから、まったく降りたことがない駅が多い。

そんなわけで、知らない駅に降りるときは、ちょっと心がときめくのである。
それは、ちょうど若い時代だったころに初めての人に会う心境と似ている。初々(ういうい)しい気持ちがないこともないからだ。

しかし、実際に歩いてみると何となく見知っている気持ちがしないこともない。つまり、来たことがない場所でも想像の範囲内であることが多いからだ。まったく予期をしなかったことなども、めったにない。

そんな中で、再発見があれば幸せである。

プチさんは、小さな心の旅でもあるか?


アバンチュールなどと言ったら、かなり大げさであろう。
そうかと言って、単に冒険とでも言ったら、なおさら誤解をうけかねない。いわゆる小さな「心の旅」なのである。

フランス語からきたアバンチュール(aventure)は、「恋の冒険」というか「火遊び」にも近いニュアンス。老いてからのプチさん(プティ散策)は、心の旅路とでもいうか、いわゆる心の冒険なのである。小さなことでも、心がときめく。また、いつまでも飽きない。

身体はすぐにへたってしまうが、気持ちは鮮やかなのである。
そんな意味で、若いころの恋のような感情を否めない。つまり、残りの人生に対する名残(なごり)なのであろう。歩いていると細かいことでも、改めて驚きがあるのはそのためである。
「舞鶴」という言葉あり、悲しいひびき。


舞鶴には、行ったことがない。だから港なども、実際には知る由もない。
しかし、報道などで「京都府舞鶴市の朝来(あせく)川南側の雑木林で、府立東舞鶴高浮島分校1年小杉美穂さん(15)が他殺体で見つかった事件で、遺体の傷跡から、凶器はバールのようなものであることが府警舞鶴署の捜査本部の調べでわかった。」などと知ると、何となく哀れで悲しい気持ちになるのはなぜだろうか。

それは、おそらく舞鶴が戦後の引き揚げ時代の帰港地だったからであろう。そのように思いは異なっても、言葉によって感情は転移するもののようだ。

既視感(デジャビュ)などと同じように、人間の心の中に経験がなくても規範を刷り込むようなことがあるらしい。
道を歩いても、知的空間!


舌足らずで、何とも様(さま)にならない作品。
でも、私は種田山頭火や尾崎放哉のことを思い出したりする。あまり、スタイルや内容のことを気にしなくてもよいと思う。
畢竟、自分自身がよければよいのであるから。

世の中には、五・七・五の形式が多い。
俳句を初めとして、川柳やモットー(標語や座右の銘など)まで。あらゆるところに、そんな言葉があふれている。語呂(ごろ)がよいのかもしれない。

しかし、私はいつも、それが「結句」ではないので何となく先があるように思う。やはり、「挙句」(あげく)としたほうが言葉の据わりがよいのではないか。
そんな意味で、私は新句(十九音)なのである。



忍者ブログ [PR]