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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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何をするにも疎(うと)ましく、老いを感じる。


ここのところ、何となく衰えてきたのだろうか。「老いを感じる」と言ったら、ちょっとオーバーかな。

でも、何かするときに「面倒くさい」とか「億劫(おっくう)だ」などと思ってしまう。そして、何かをしたときにすぐに疲れてしまう。その結果、「疲れた、疲れた」などと言う始末。

何となく老化・退廃の兆(きざ)しである。
よく考えてみれば、還暦をとっくに過ぎて、もはや古希である。だから、当然のことと言えばそれまで。

しかし、何とかして「サムエル・ウルマンの『青春』という詩」のようにありたいとも思う。できることならば、……。

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すぐ疲れちゃうので、あまり遠出はできぬ。


古希(数え年の七十歳)の前後から、急速に体力が衰えるという。
そんなわけで、すぐに疲れちゃう。かつてのように、10キロメートル以上も歩く強行軍は、もはやできない。

そこで、近場の散歩。それをプチさん(プティ散策)という。駅を中心として数キロメートルの範囲内。もしも体調を崩しても、周辺には病院があるだろう。また、疲れてから帰ってくるときにも駅から電車にすぐ乗れる。

そんな状態であるから、安心できる。
つまり、交通機関そのものが母船のようなもので、頼りになるのだ。

老いてからも冬山に行ったり、太平洋に乗り出したりする人もいる。しかし、遭難などをすると多大な迷惑がかかるだろう。そんなわけで、私たちのプチさん(プティ散策)は安全で安心。
同じこと、いつも反復、それが人生。


同じことを言ったり、繰り返したりすると、くどいと感じる。とくに、相手が老人であると「また、つまらない繰言(くりごと)か?」などと軽蔑をする。
また、そのことは話したから、もう話さない。そこは行ったから、もう行きたくない。そんな人がいる。しかし、それは知能の低い人。本来、すべてが反復。

歴史や日々のことがらを考えると、そんなことが遅蒔きながらわかってきた。旧約の『伝道の書』ではないが、日はまた登るのである。ヘミングウエイの作品にしても、ベストセラーにしても、かつてあったものの二番煎じというのが、コヘレットの考え方。それも、大金持ちのソロモンの言葉を借りて、くどくどと吐露(とろ)している。

私は、さらにそれを脳のもたらした幻影だと考える。
そして、「そのことは知っている」というのは、「今朝(けさ)朝飯を食べたから、もう今後は飯を食わない」とか、「今息を吸ったから、もう吸わない」などと言うように、まったく愚かなことであると思う。
ミスドにてカフェオレ二杯、知的空間。


とくに甘いものが好きというわけではないが、「ミスタードーナツ」にはよく行く。禁煙席があって、コーヒーのお変わりが自在だからである。そんなわけで、20分ぐらいねばるときが多い。

「カフェオレ」のお変わりは必ずするが、ドーナットはいつも二つ。
とくに、何かをするというわけではないが、一人でカウンタ席に座る。そして、いろいろなことを考える。たいがいは、プチさん(プティ散策)の帰りだから、ちょっと疲れている。それで、甘いものを食べて元気回復。

黙っていても、お変わりをもってきてくれる。しかし、忙しいときは来ない。そんなときは、自分でカップを持って取りにいく。客は、若い人が多い。また、ほとんどが女性。私のような古希前後の老人は、めったにしか来ていない。

それでも、そこは私の「知的空間」の場所。有難いことである。
面白い人は少なく、変人多し。


以前は、市の福祉センターによく行ったものだ。
しかし、とくに親しかった三人が来なくなってからは、あまり行かない。一人は寝たきりに、そして二人は亡くなってしまった。

最近は行っても、面白い人がいない。つまり、話をしていて楽しくなるような人が少なくなった。その代わり、ちょっと変った人、悪く言えばいわゆる変人が多い。自己本位な人や、還暦を過ぎたにもかかわらず金儲けがしたいというような山っ気がある人が多いのは、いったいなぜだろうか。

もっとも、私のほうが変人で、金儲けはともかく知識欲にとらわれている奴だと思われているのかもしれない。とにかく「高齢になったので、社会のお役に立ちたい」と考えている人は、さっぱり少ないのではないか。
それはやはり、操作された報道やFMなどによるマインドコントロールによる結果かもしれない。


公開を中途半端で、未熟なままに!


私は、ホームページやプログの内容が中途半端で、未熟であるにもかかわらず、公開をしてしまう。なぜならば、完成をさせようとすると時間がかかってしまうから。つまり、古希前後になると、もはや先が長くないであろうと考える。

そんなわけで、実にみっともない内容のものが次々とできる。アップロードしたものを見直すと、我ながら恥ずかしい。つまり、恥のかき捨てなのである。

なぜやめないか。その理由は、公開をするということよりも、インターネットの機能を使いたいからだ。例えば、ウェブ上での検索。全体が1ギガバイトにもなると、もはや自分のハードディスク内ではムリ。また、Googleの地図と連動させることも、インターネット上でないとできない。とどのつまり、最先端の技術を使わせてもらいたいから、恥をしのんで公開してしまうんだ。
すばらしい場所の多くをプチさんで知る。


身近なプチさん(プティ散策)でも、多くの再発見がある。意外に知らなかったことが多いからだ。また、目がそこに向いていなかったことも事実。

そこで、風景を楽しむのもよろし。また、歴史をひもとくのもよろし。
しかし、そこに自分自身の知的空間(その奥義)を築くのが花札の「あかよろし」ではないが、明らかによろしい。

身近に楽しみや幸福があることを知る。捜し求めた『チルチル・ミチル』の最後にあるように。かつて、わがままなバラといた小さな空間に、やはり生きがいがあったことを知り、そこに戻る決心をする。『星の王子さま』のように。
そしてまた、実際の日々の生活に喜びがあることに気付く。『銀河鉄道の夜』のエピローグに書かれているカンパネルラと別れた後で、ジョバンニが現実の生活に戻ったように。

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