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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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世の中のすべてが何となく、うとましい。

ここ数年前から、世の中のことが、何となくうとましくなった。うとましい(疎ましい)とは、「好感がもてなくて、近づきたくない」感情である。つまり、いやなのである。例えば、「その名前を聞くのもうとましい」などと使う。また、「異様で恐ろしく、不気味」であるときなどにも用いる。何となく、「面倒くさい」「億劫である」などの延長線上の言葉のような気もする。しかし私がどうして、自分がそうなったかは解らない。
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往く者は追わず、来る者拒まずという。

自分から去って行く者は、おっかけない。また、自分を求めて来る者は受け入れる。孟子の言葉である。何となく当然のことであるが、実際の人間関係について考えると、必ずしもそうでない。つまり、さらりとしていないのである。往く者をしつこく追っかけて、事件になったりもする。未練があったり、自分自身の人格ができていないためであろう。また、やってくる人を受け入れなかったり、嫌うこともある。やはり、自分自身の人格の欠如かもしれない。
いまここに、こうしているのが不思議なくらい。

現実に自分が生きて、ここにこのようにしているのが不思議なくらいである。今までに、何度も体調が悪くなったり、交通事故を起こしそうになったりした。つまり、何回も死にかかったことがある。しかし、何とか無事で、今日という日に続いてきた。不注意な自分にとっては、幸福なことである。もっと細心の注意を払って、日々の生活をしなければいけないと思う。残りの人生が少ないので、日々を大切にしなければいけない。

老いてから目やに・鼻汁、出るようになる。

汚い話ではあるが、還暦を過ぎたころから、目やにや鼻汁が出るようになった。目やには朝起きたとき、鼻汁は体調の悪いとき、何となく出てくる。もしかしたら、目やには寝ている間に少しずつ出るのかもしれない。横井也有の『歎老辭』(歎老辞・嘆老辞)にも、似たようなことが書かれていたが、「老い」というのは誰にでも来る、仕方のない現象のようである。芥川龍之介や川端康成のように、それを避けようとした人もいたようだが、……。
 
歩行には、「転ばぬ先の杖」などと言う。

老いてくると、何となく足がもつれることがある。さらに膝が痛くて、ついよろめいてしまうこともある。加齢によって、足の筋肉が弱ってくるためかもしれない。転ばぬ先の杖などと言うが、手摺りなどを利用すると安全である。例えば、階段の手摺り、エスカレータの手摺りなどを握るだけでも、転ばないためには充分。しかし、そこにはバイ菌などもいるので、どうも衛生的ではない。そこで、手袋をしたり、ハンケチで覆ったりする。
生きていることより、むしろ生かされている。

最近になって、しばしば思うことである。自分が生きているというよりも、大きな自然の中で生かされているのではないか。自分の意思もあろうが、むしろ大きな自然界の成り行きによって生きている。つまり、自然の中に生かされているのである。むろん、自分自身の意思でしたいことが、ある程度はできる。しかし、思うようにいかないことが多いのは、努力が足りないのではなく、自然の摂理がそうなっていないのではないかと考えるようになった。
つきつめて、考えることなく生き、老いる。

いったい人生とは何か、そして何のために生きているのか。さらに死んだら、どうなるのか、などということを真剣に考えたことはない。ただ、何となく日々を過ごしてきたのである。つまり、生きているといっても、とどのつまり実態がないのである。ダラダラと日々生業(なりわい)や方便(たつき)が過ぎていく。「たつき」とは、方便や活計の意味で、「手(た)付き」の意味。つまり、生活の手段・生計の意味。そんなことで、とうとう老いてしまった。


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