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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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高齢になるとご注意! 尿路感染。


ふつう、高齢になると免疫力がかなり弱ってきます。
また、腎臓や尿路の病気になりがちです。とくに、尿路感染症が発症しやすいので、注意が必要。男性の場合は、だらしなく不潔になりがちなので。

もしも、尿道カテーテルなどを使っている人がいたら、細心の注意をしなければなりません。なぜならば、とても細菌に感染しやすい状態になっているからです。

しかし、高齢者の場合は尿路感染症になっても、あまり顕著な痛みなどの症状が出ないこともあります。実は、私の場合がそうでした。

実際には、腎臓のネフロンにある糸球体の一部が破壊・剥落して、ボーマン嚢を通過して尿に出てきていたのですが、痛くも痒くもありません。ふつうは気が付かないのでしょうが、私は日ごろから尿を計量カップの採っている習慣の関係で、そのような事態がわかったのです。

高齢になって水分の摂取量が少ないと、不都合なことが増えるでしょう。
とくに、夜間はトイレに起きたくないので水分をひかえます。しかし、実際には水分を多く摂って、ある程度の尿量を確保しなければなりません。
また、尿をすることによって尿路のクリーニングもできるわけですから、チビチビではいけません。洗い流すだけの流量がなければ、感染を阻止できないからです。


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腰痛と膝の痛みは、加齢のためか?


還暦を過ぎたころから、腰痛が出たり、膝が痛む人が多いらしい。
私も、そんなことがよくある。しかし、まだ痛みに耐えられなかったり、歩きにくくなって医者に行くほどのことはない。

腰痛も、膝の痛みも成り行きは、当然なことであろう。
人間の歴史を考えてみるとわかる。
元来、背骨は梁(はり)であった。直立歩行をするようになってから、それが柱(はしら)の役目を担うようになったのである。したがって、どうしてもムリが生じる。

また、食うに追われた時代には、体系は一般にスリムであったろう。
それが、飽食の時代。どうしても、体重が増え気味。そこで、必然的に膝に負担がかかり始める。その結果、歩くのも不自由になる始末。

インシュリンの不足による糖尿病や食べ物の不都合による血圧上昇などは、何となく化学的な症状であるが、腰や膝の問題は物理的な現象のようだ。
そうじゃないだろうか?



ソリティアと将棋・麻雀、ボケないために。


私は、勝負事が嫌いである。
人と争うのはむろんのこと、籤(くじ)・賭(かけ)、競争などもしない。だから、競馬や競輪などもやったことがない。また、宝くじも買わないし、お年玉付き年賀状なども出さない。

ソリティアなどは、ボケ防止よりも運試しにする人がいる。
しかし、私は占いとか占星術などには興味がない。だから、単に老化防止の一環として、楽しむだけである。

ソリティアを3回、将棋を一局、そして麻雀は半チャン、それでやめる。「もう一ちょう、勝負!」などとならないようにする。

そんな意味で、すばらしいゲームである。
いずれも、インターネットから無料で使わしてくれる優れもの。
詳細は、ここ をクリックしてね。
「群れたがる」習性と、「個になりたがる」あり。


人間には「群れたがる習性」と、その反対に「個になりたがる習性」があるようだ。まったく反対の方向であるのが、何となく不思議でもある。

「群れたがる習性」とは、大きなものに集まりたがる気持である。ふつう、群れていると安心ができると考えるようだ。また、一人では何となく不安な気持になってしまう人が多い。

しかし、反対の「個になりたがる習性」というのも一長一短である。
『徒然草』や『方丈記』の著者たちは、そのことについて見極めていたようだ。
私には、卜部兼好よりも鴨長明のほうが、進んでいると思う。それでも、いずれも徹底していたとは、とても言えないようだ。

とどのつまり、必要に応じて群れ、不必要なときには個になるのがよい。
いくらがんばっても、日本国民であることを止(や)めれない。国籍を変えればよいかというと、そうしても同じことになってしまう。
さらに、人間であることを止めれない。例えば「私は貝になりたい」と思っても、なれるものではない。
そんな中にいるから、心の葛藤があるんだろう。



「豚生姜焼定食」を注文したり。


私は、吉野家の大ファン。
ときどき、「豚生姜焼定食」480円を注文する。むろん、中瓶ビールとともに。

そのときに、ふと思うことがある。
固有名詞であるから、それでよいのであろうが。ちょっと、気にかかる。
最初から正しく読める人が、いるのだろうか。

むろん、「生姜」は「ショウガ」である。古くから、辛みと香気のある地下茎を食用・香辛料にしてきた。薬としても漢方で、生姜(しょうきょう)と言って健胃・咳止めとして用いた。ハジカミとも言う。
しかし、「姜」の寺である。美しい女を想像する人もあろう。そんなために、「豚生」で区切って読んでしまうかもしれない。豚の生肉は、いただけない。

私は、「□肉□食」の□の中に文字を入れる入社試験が、かつてあったことを思い出す。答案の中には「弱肉強食」ではなくて、「焼肉定食」と書いた人がかなりいたそうだ。




アオサギは、霞の中に佇みており。


聖蹟桜ヶ丘駅から上り電車に乗ると、すぐに多摩川の鉄橋を渡る。
そのときに、私はじっと川面を見る。
小雨の降るような日に、アオサギがいることがあるからだ。
以前は、狛江の辺りに多かったアオサギであるが、最近になって百草園から高幡不動辺りの浅川まで、ときには登ってくることがある。

アオサギは、コサギやダイサギなどとは異なって、かなり神経質な鳥らしい。人間がそばに行くと、すぐに飛び立ってしまう。
だから、雨模様の日や霞んでいるときには、安心をするせいだろうか、近くまでくるようだ。鉄橋のすぐ下に、いることもある。

もっとも、彼らは散歩や逍遙をしているわけではない。
各自のテリトリーがあって、小魚を捕っているのである。だから、そのアオサギの回りには、他の鳥がいない。
それが、私には「孤独や孤高を守っている」ようにも、見受けられるのだ。


何となく、病気は自分で作るものかも?


同じ状態に置かれても、病気になる人とそうでない人がいる。
もともと「病気」は、「気が病む」ことかもしれない。

確かに、怪我や外傷も病気であろう。
それらの場合、病院に行って治療を受けるのであるから。

しかし、内臓の病気の場合、かなり気持の持ち方、というより「気」の「持ち方」が影響をするようである。
同じように病原菌にさらされても、感染する人と感染しない人がいるのはなぜだろうか。

本来の身体自体がもっている拮抗力(きっこうりょく)や抵抗力などは、正常に働いている間は問題がない。しかし、ホメオスタシスなどがいったん失調してしまうと、いわゆる「病」の状態になる。
乱暴な言い方をすると、病気は自分で作るものかもしれない。
最近になって、つくづく私はそう思うようになった。
あなたは、どうですか?

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