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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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貧しさに、耐えて忍べば、楽しかるべき。


『論語』に書かれている顔回(がんかい)は、貧乏でした。しかし、心が豊かであったために、学問に励んで日々を楽しく過ごしました。
残念なことに、若くして亡くなり、孔子を悲しませたということです。

『徒然草』に出てくる許由(きょゆう)という人も貧乏でした。
その第十八段には、次のように書かれています。

<人は己をつゞまやかにし、奢(おご)りを退けて、財(たから)を有(も)たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀(まれ)なり。

唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひつる人は、更に身に隨へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飮みけるを見て、なりひさご(瓢)といふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手に掬(むす)びてぞ水も飮みける。いかばかり心の中(うち)涼しかりけん。>

許由に続いて、孫晨(そんしん)のことも書かれています。
ご関心のある方は、『徒然草』の第十八段をお読みください。
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これでもか? これでもか? 繰り返すか? バカは?


バカな人間は、しつこいほど繰り返しをします。
おそらく、私はその部類でしょう。
しかし、それはそれでよいのではないでしょうか。
パンダカかはブッダに言われて、「塵を除く!」という言葉を数十年も唱えたといいます。なかなか覚えられなかったからです。

しかし、考えてみれば人生そのものが反復の歴史のようでもあります。
「旧約聖書」にある『コヘレットの書』(「伝道の書」とも言う)には、そのようなことが書かれています。
つまり、「日はまた昇る」のです。

何かをすると、やがて忘れてしまいます。
そして、また同じことを始めるのです。
そのようなことが遺伝子に組み込まれているので、ふとデジャビュ(既視感)のような感覚が生じるのでしょう。
身の回り、小ぎれいにして、そろそろ準備。


何の準備をするというのでしょう。
それは、お迎えの準備です。

還暦を過ぎたころから、いつ自分が死んでもよいような準備をしておく必要があるでしょう。それは、なかなか気が付かないことですが、あっという間のことになりかねません。

『方丈記』の第百五十五段にあるとおりです。

<春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の來るにはあらず。春はやがて夏の氣を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、十月(かんなづき)は小春の天氣、草も青くなり、梅も莟(つぼ)みぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる氣、下に設けたる故に、待ち取る序(ついで)、甚だ早し。生・老・病・死の移り來る事、又これに過ぎたり。四季はなほ定まれる序あり。死期(しご)は序を待たず。死は前よりしも來らず、かねて後に迫れり。人みな死ある事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の滿つるが如し。>
肝炎やエイズなどには、なりたくもなし。


そこで、注意をするわけですが、すでになってしまった場合には、何らかの対策が必要です。ふつう、エイズなどというと自分には関係ないと思いがちです。しかし、体調が悪いのは、まさしくエイズかもしれないのです。

なぜならば、後天的に免疫が不全になる症候群を「エイズ」というのですから。とくに、男性どうしでいかがわしいことをしなくても、エイズになるのです。

つまり、エイズは「Acquired」(後天性)と「Immuno」(免疫)と「Deficiency」(不全)と「Syndrome」(症候群)の略語なのです。
そして、HIVつまり「Human」(ヒト)「Immunodeficiency」(免疫不全)「Virus」(ウイルス)によって起こる病気なのです。

だから、体内の血液に入ったウイルスが不都合な状態を引き起こせば、エイズと言えるでしょう。ホモにエイズが多いというのは、関係をするときにお尻を使うので、ムリをして傷口ができ、そこから菌が入ってしまうのです。

また、歯を磨いていて歯茎(はぐき)が出血をした場合、歯周菌が血液に入ってしまったり、すでにエイズの母親から胎児に感染する危険性もあります。
いろいろと、注意が必要になるゆえんです。


「ぬ・れ・ろ」三文字(さんもじ)で始まる作品はなし。


新句(十九音)の索引を見ていましたら、「ぬ」「れ」「ろ」で始まる作品が、まだありませんでした。2007年8月7日(火曜日)現在です。

現代では、「ぬばたまの」などはむろんのことないでしょう。
また、「霊柩車」とか「蝋燭の」などという言葉も、あまり身近でないようです。
実は、少し前に「蝋燭の炎がぱっとひときわ明るくなって、すぐに消えた」というような作品を作ろうとはしたのですが、誰かの臨終の句にあったように思ってやめたのです。

また、心筋梗塞でしたが死ぬ前に元気だった人を揶揄(やゆ)ってもいるようで、ちょっと心配だったからです。

まぁ、言葉の好みは人によってさまざまですから、一概には言えませんが、……
「ら抜き」だが、「食べれる」ことと「見れる」幸福。


私は、自分が外食をして何でも「食べられる」ことと、自宅でケーブルテレビなどを「見ることができる」のを幸福と思う。自分の健康が維持できるし、さらに知的空間が広がっていくからだ。

言葉に対して、識者の意見が喧しい(かまびすしい)。
日本では、言語学者が言葉を作るのではなく、向こう三軒両隣、ちらほらする人たちが勝手に作って広げていく。そして、やがて、なぜか、広辞苑に載る。
フランスのように、アカデミーで認めないと「新語」ができないようにすれば、現在もチェンバレンやモラエース(モラエス)が言ったような美しい日本語であったろう。
私は、最近になって敬語以外は「ら抜き」の言葉にした。なぜならば、早晩そうなるであろうと思うから。

若い人は、敬語さえも意識しないのではないか。
そこで、「旧約聖書」の神や「新約聖書」のイエスのお言葉さえ、敬語抜きにしてしまったのだが。
はてさて。
考えてみれば、学問するも疎まし。


人間の生活には、何と疎ましい(うとましい)ことが多いのでしょう。
おそらく、昔からの生存競争というか、人間社会の実情に合わせた教育などがその原因になっているようです。

無駄で無意味なことが、日々何と多いことでしょう。
私は「非三無」(ひさんむ)と言って、「無為」と「無理」と「無駄」をしないようにしています。

『徒然草』にも、

<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>

というような記述がありました。
第七十五段の後半です。


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